シンポジウム:坂上香さん、山下英三郎さん、山口由美子さん「『問題』から『つながり』へ」

——しかし、世間では厳罰化、「ゼロトレランス」の方向にありますね。

山下:悪いことをしたら、厳しくとっちめろというのは、わかりやすい論理です。でも、その結果をみないといけない。アメリカでゼロトレランス政策が始まったのは、90年代半ばです。しかし弊害がたくさんあって、2014年1月、アメリカの教育省はゼロトレランスは誤りだったと認め、修復的アプローチも採り入れるべきと認めました。それなのに日本では、ゼロトレランスを採り入れる方向にある。厳しくされたら、屈辱感が溜まって、それが爆発する。シンプルに考えたらわかることです。もう少し長い目で見れば、けっしていい効果がないことは明らかです。

——被害者が加害者を理解するというのは酷な面もあるように思います。

坂上:被害者に加害者への理解を強いてはいけないと思います。ただ、そこには、事件前と事件後の状況も影響すると思います。事件直後は怒りや憎しみにまみれてしまうかもしれないけれども、まわりが、その人をどう受けとめるのか。それが本人にも大きく影響する。被害者や遺族の怒りや憎しみ、悲しみは、当然です。周囲にはどうしてあげることもできない。でも、周囲は、それに火に油を注ぐことはしてはならないと思います。

山口:息子さんを集団リンチで殺された方とお会いしたことがあります。その方の話を聴いたとき、私も、自分の息子が殺されていたらどうだっただろうと考えさせられました。また、その方の場合、加害少年たちは少年院から出てきても、線香の1本もあげにこない、ごめんなさいの一言もないとのことでした。そういうなかでは、恨んでいく道しかないのかなと思いました。
 私は被害者遺族ではなくて、被害当事者で、その場にいたんです。そこは大きくちがうかなと思います。また、娘の不登校などもあって、少年を恨まないですんだ。人を恨んで生きていくほどつらいことはないですよね。それは心だけではなく肉体をもむしばんでいくものです。

それと、事件に遭ったあと、何もできなくなったんですね。食事から排泄まで、すべてを他人にゆだねていました。そこで大切にされる経験をしたことで、自分自身を丸ごと受けいれられるように変わった。それまでは、がんばっている自分がよくて、がんばらない人はダメな人だと思っていました。でも、事件後の経験のなかで、何もできない私も生きていていいと、自分を丸ごと受けいれることが、意識を通さないでできたんです。

そうしたら、子どもたちから「お母さんが変わった!」と言われました。子どもたちは心の目で大人を見ているんですね。ですから、事件に遭ったことはたいへんだったにはちがいないですが、私にとって大きなプレゼントでもありました。

——言語以前のコミュニケーションが人を支えているのでしょうね。それはサンクチュアリを築くうえでも大事なことだと感じます。

坂上:言語化することって、すごくたいへんですよね。PTSDを負っている人は、なかなか言語化できないと言われます。言語化というのは、自分と自分に起こったこととに距離を持たないとできません。ですから、言語ではない何かが必要なんですね。演劇、音楽、畑作業など、非言語的表現の可能性はあると感じています。

——ありがとうございました。

*シンポジウムのようすはyoutubeで視聴可。

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