講演会:森田ゆりさん「エンパワメントと子どもの人権」

森田ゆり(もりた・ゆり)
エンパワメント・センター主宰。アメリカと日本で、多様性人権啓発、子ども・女性への虐待防止専門職の養成に30年以上携わる。その間7年間はカリフォルニア大学主任研究員として、多様性、人種差別、性差別など人権問題の研修プログラムの開発と大学教職員への研修指導にあたる。1997年にエンパワメント・センターを設立し、研修・講演活動をしている。おもな著書に、『体罰と戦争』(かもがわ出版)、『子どもと暴力』(岩波現代文庫)、『しつけと体罰』(童話館)など多数。

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講演会:エンパワメントと子どもの人権
講 師:森田ゆりさん
日 時:2013年5月12日
場 所:阿倍野市民学習センター
初 出:『フリースクールにおけるスクールソーシャルワーク導入の基盤整備事業報告書』
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森田ゆりと言います。こんにちは。今日は「子どもをエンパワメントするには」というタイトルをいただいていますが、勝手ながら「エンパワメントと子どもの人権」というタイトルにしました。エンパワメントと人権という概念は、不可分に結びついたものです。

今回、フリースクールにおいてもスクールソーシャルワークを採り入れていきたいというお話ですが、フリースクールのさまざまな活動も、子どもの人権をしっかりと土台に置いて考えてほしいと思っています。

いろんなセクターと協力関係を持っていくときに、何を基盤にしていくのかと言えば、いちばん根底の基盤は、子どもの人権です。いま、目の前にいる子どもが尊重されているのか、むしろ大人の都合が優先されているのではないかを常に確認することが必要です。そのためには、理論的にも、日常的な会話のなかでも(親やスタッフ、子どものあいだで)、「生きる力」としての子どもの人権が話題にのぼる、そういう文化を確保していただきたいと思います。その土台がしっかりしていないと、ブレてしまうんです。そのときの時代状況や、力を持った人の声に影響されて揺れてしまう。自分たちが何でフリースクールの活動を始めたのか、そのエッセンスは何か、土台をしっかり持っていないと、人はそのときどきの状況でブレてしまう。そのとき、立ち返る土台があれば、ブレを修正することができます。

人権を心のレベルで考えると

まず、あらためて人権とは何か、お話したいと思います。今日は人権という言葉を難しく考えず、法律的な人権については横に置いておきます。もちろん、法律的にも大事なもので、とくに現在の政治状況のなかでは、大切な私たちの人権が揺らいでいこうとしていますから、きちんと再考する必要があります。しかし、今日は心のレベルで人権を考えてみたいと思います。

手話で「人権」を表現するとき、「人」と書いてから「力」と書きます。まさに人権とは人の力だなと思います。誰もが生まれながらにもっている力。赤ちゃんでも持っていて、死ぬまで持ち続ける生きる力。私たちが持つさまざまな力のうち、もっとも重要な力です。

この人権という概念は、江戸末期から明治初期にかけて、福沢諭吉や西周が翻訳したものです。つまり、それ以前には日本には存在しなかった概念です。福沢諭吉の『西洋事情』という本には、彼が人権を翻訳していった事情についても書かれていますが、福沢はここで、「天賦人権」という言葉を使っています。天から与えられた人権、親や国家にもらったものではなく、生まれながらに持つ人権ということですね。18世紀西欧の自然権を理論化したルソーらの考えです。誕生と同時に誰もが持つ奪われてはならない大切な生きる力。それが人権です。

人権と権利には二つのちがいがあります。ひとつは、人権は生まれながらにして持っているということ、もう一つは、人権は誰もが等しく持っている。それに対して権利というのは後から獲得するもので、人によって持っている権利はちがいます。たとえば、自動車を運転する権利とか、遺産相続の権利とか……。権利は、人によって容量がちがうわけです。

人権は誰もが等しく生まれながらに持ち、けっして奪われてはならない生きる力の尊厳です。

 安心・自信・自由

人権を心のレベルで考えると、三つあります。それは、安心・自信・自由です。CAP プログラムの根幹をなす考えです。赤ちゃんもお年寄りも、誰もが持っている特別な権利。これが奪われると、どうなるか。

安心が奪われると、人は健康を維持することができません。

自信を奪われると、人は心の健康を維持することができません。不登校、いじめ、DVなどで、自信が揺るがされてしまうことがあります。自分に対する自信を傷つけられて、私は私でいいと思えない。自分を肯定できる自信。それが奪われると、人は心を病みます。

そして、自由。人権概念としての自由とは「選べること」です。私はカリフォルニア大学で多様性と人権を教える仕事を8年間しましたが、その間、4歳の子どもにも自由をわかりやすく説明するにはどうしたらいいか考え続けました。カリフォルニアの小学校でCAPワークショップをするのを頼まれたとき、4年生のクラスで「自由って何だろうね?」と聴きました。ひとりのアフリカ系アメリカ人の子が手をあげて「自由って奴隷じゃないことだよ」って言ったんです。そのとき、ずっと考え続けてきたことへの答えのヒントをもらいました、「そうだ、自由って選べるってことだ」と。奴隷は何も選べない。住むところも食べるものも、着るものも何も選べない。それ以来、「自由って選べることだよ」と説明しています。

自由という言葉も福沢が翻訳したものです。それ以前の日本には、人権概念としての自由の概念は存在しませんでした。福沢はその際、「リバチイとは自由のことである」「でも、この自由は勝手気ままという意味ではないからまちがえないように」と書いている。自由という言葉は明治以前からあるんですが、それは「勝手気まま」という意味だったんですね。そこに、人権概念としての自由を相乗りさせたわけです。しかし、同じ言葉に相乗りさせたものだから、日本の近代史のなかで、自由の概念は混乱してきました。人権概念としての自由なのに、勝手気ままという意味と混同してしまう。だから日本の学校の先生は、「自由なんて教えないでほしい、自由より責任を教える必要がある」と言います。

勝手気ままには、主体性という概念がない。一人ひとり個人に物事を決める力があるという概念がない。でも、選ぶということは、選ぶ主体がある。選んだ結果、まちがえたら、そこから修正していく、選びなおしていく。選び続けていくこと。それが自由を行使していくということです。

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