対談:あらためて「当事者」について考える

貴戸理恵(きど・りえ)
1978年生まれ。関西学院大学准教授。研究テーマは不登校〈その後〉など。づら研(生きづらさからの当事者研究会)コーディネーター、ハジコミ責任編集者。著書に『不登校は終わらない――「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』(新曜社2004)、『「コミュ障」の社会学』(青土社2018)など。

山下耕平(やました・こうへい)
1973年生まれ。NPO法人フォロ副代表理事。18歳以上の居場所「なるにわ」コーディネーター、づら研では司会進行、ハジコミ責任編集者。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)、共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)など。

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あらためて「当事者」について考える
~ハジコミを始めるにあたって~
対 談:貴戸理恵×山下耕平
日 時:2021年5月31日
参加者:貴戸理恵、山下耕平、鈴木のび太、太郎、野田彩花、もとのりみ、森下裕隆、柳大地
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山下:これまでNPO法人フォロでは、フリースクール、なるにわ(18歳以上の人の居場所)、づら研(生きづらさからの当事者研究会)などの活動をしてきましたが、これから新しい企画「ハジコミ」を始めたいと思っています。マスコミでもミニコミでもなく、ハジコミ。ハジとハジをつなぐコミュニケーション、端と端をわたす橋になるような対話のプロジェクトです。社会のハジっこに追いやられている問題をテーマとした学習会、インタビュー、座談会などを実施し、その内容を記事としてネットで公開していく予定です。このプロジェクトでは、ひとつの当事者性に限定せず、さまざまな文脈がクロスところの対話を大事にしたいと思っているんですね。問題を当事者に閉じ込めず、相手のなかにも自分のなかにある多様性を大事にしながら、さまざまな人と対話していく。そこからは、ひとつの当事者性からだけでは見えてこないものが見えてくるのではないかと思っています(くわしくは趣旨参照)。いわば、「当事者」の枠をはみだす対話のメディアをつくろうという企画です。

そこで、そもそも当事者とは何か、あらためて考え合う機会を持ちたいと思い、まずは、づら研のコーディネーターである貴戸理恵さんと私(山下耕平)で対談をして、それをもとに参加者のみなさんと意見交換したいと思います。よろしくお願いします。

貴戸:よろしくお願いします。

不登校の「当事者」とは

山下:まず、最初に、不登校の「当事者」について考えたいと思います。というのは、 貴戸さんも私も、不登校との関わりから始まっているからです。それで、まずは不登校をめぐって、「当事者」という言葉がどのように使われてきたのか、ちょっと調べてみたんですね(といっても、手元にある資料をあたってみただけで網羅したわけではないのですが)。そのかぎりにおいて、という留保をつけて言えば、最初に「当事者」という言葉を見つけたのは、1997年の、ある法案をめぐる集会資料においてでした。しかも数は少なくて、何箇所か散見されたという感じです。その翌年、98年に不登校新聞が創刊されたんですが(私が編集長をしていました)、この創刊号や創刊準備号の紙面では、「当事者」という言葉がひんぱんに使われていました。どうも、私の関わっていた近辺では、「当事者」という言葉は97~98年にかけて使われ始めたようなんですね。それより以前の書籍、資料などで出てくる言葉は、「子ども」「親」「市民」というもので、「当事者」という言葉は見当たりませんでした。自覚はしていませんでしたが、どうやら不登校新聞の創刊あたりが節目になっているようです。

不登校というのは、かつては、親の育て方、とくに母親の問題とされていて、あるいは子どもの神経症の問題とされていたんですね。そういうなかで、渡辺位さんという児童精神科医のもとに来ていた親たちが、73年に病院のなかで親の会を始めたのが、不登校運動の始まりだと言えます。つまり、不登校をめぐって、運動の主体となって発言し始めたのは、子ども本人ではなく親だったということです。まずは親の運動だった。ですから、昔の本や資料を見ると、親からみて「子ども」と言っていたり、自分たちのことを「親」「市民」と言っていました。

その後、80年代半ばになって、その親・市民が、東京シューレを始めとして、子どもの居場所やフリースクールを立ち上げて、そこから子どもが自分の声を発し始めるんですね。不登校の一番の当事者は子どもですが、しかし、その子どもの語りも、親がつくってきた運動、その言説の枠組みのなかにあったように思います。いま、ふり返って考えると、「当事者」という言葉を使うことで、そのへんがあいまいになった面もあるかもしれないと思います。あるいは、「当事者」といっても、不登校経験者が過去をふり返って語ることも多かったように思います。いま、渦中にある人は語る言葉を持ちにくいですからね。貴戸さんの初発の問題意識も、そのあたりにあったように思うのですが、いかがでしょう。

貴戸:不登校の運動のなかで「当事者」という言葉が、いつからどのような意味で使われてきたのかは、たいへん重要で、誰かがきちんと調べないといけないところだと思いました。私自身も調べておらず、盲点になってしまっていました。いまのお話では、97~98年あたりから使われるようになったということですが、具体的には、どのように使われていたのでしょう。

山下:児童福祉法44条が改正されて、旧教護院が児童自立支援施設に変更された際、その対象を不登校の児童生徒に拡げるという案があったんですね。それに対して、東京シューレが中心となって、反対運動を起こしたんです。児童自立支援施設への入所は措置なので、不登校が専門家によって一方的に問題視されて、本人の意志と関係なく施設に措置されてはかなわない、ということでした。そこには、それまでも本人の意志を無視して病院に入院させられたり、矯正施設に入れられたりしてきたという、不登校の子どもへの人権侵害の歴史もありました。

この法案をめぐる反対集会の資料のなかで、東京シューレ代表の奥地圭子さんの文章に「当事者の自己決定権はどうなる?」という記述があったほか、国会議員のコメントなどに「当事者」という言葉を見つけました。ただ、ほとんどでは「子ども」「本人」という言葉が使われています。運動のなかで、東京シューレの子どもたちがつくった会の名前も「子どもの声をぶつける会」でした。

しかし、98年の不登校新聞創刊では、かなり頻繁に「当事者」という言葉が使われている。推測にすぎませんが、NPO法の可決成立が98年3月なので、どうも、そのあたりも関係しているのではないかと思います。また、どうやら障害者運動においては、もっと以前から「当事者」という言葉を使っていたようです。つまり、「当事者」という言葉は、不登校運動のなかから出てきた言葉ではないけれども、ほかの社会運動や社会状況の影響を受けて、不登校運動のなかでも使うようになった、ということではないかと思います。

貴戸:なるほど。不登校新聞は、当事者が発信するメディアということだったんでしょうか、それとも当事者のことを発信するメディアということだったんでしょうか。

山下:当事者が発信するメディア、ということですね。

貴戸:そうですよね。そこが大事な転換点だったのかなと思います。親の運動においては「子どもの話を聞く」ということは、ひとつの倫理的な態度だったと思うんですね。もちろん、目の前の具体的な子どもと対話するということでもあるけれども、それ以上に、親が何かを考えたり動くときの倫理の起点として「子どもの視点」なるものが焦点化されていた面があったと思います。

親にはどうしても「子どもには学校に行っていてほしい、親にとって安心できる子どもであってほしい」という思いがあります。それはときに「あなたのため」というふうに、とりつくろって語られることがありますが、結局は社会が押しつけてくる要求と一致するもので、親自身の利益なんですよね。それを自覚して反省したところから、「子どもの側に立って、子どもの声を聴こう」という姿勢が親の運動において出てきたと考えられます。しかし、不登校新聞が創刊されたときには、子ども若者編集部もできたりして、子ども若者が主体になって、自分のことを自分で語っていくという面が強く出ていた。

山下:それ以前から、そうした動きはあったと思いますし、不登校新聞においても、ないまぜだった面があって、親も、自分を当事者としていた面もあったように思います。そのあたりはハッキリと腑分けされずに、ごちゃっとしていた部分もあったかなと思います。良くも悪くも。

貴戸:もちろん、現実はガラッと変わるわけではなく、交じり合いながら、ゆっくり変わっていくものだと思います。私自身の問題意識についていえば、「親が不登校の子どもを認め、受けいれる」という話ではなく、「子ども若者が主体になって不登校を語っていく」というスタンスが重要だという思いがありました。そこは運動的な関心と重なっていました。不登校について肯定的な語りは親の視点をとるものが多いと感じていて、若いころはすごく違和感を持っていました。

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