学習会:桜井啓太さん「自立・依存・支配を考える」

依存を社会の基本原理に

では、どうすればよいかを考えるとき、まずは社会の基本原理から問い直したいと思います。近代社会の基本原理は、自己決定できる、自立した強い個人を原理(市民の条件)にしていたわけですね。だから、自立していない人は二流市民とされてきた。子どもは、将来は自立する予備軍として二流扱いされ、教育においては、能力によって人が分けられてきました。障害者(とりわけ知的障害者)も自己決定ができていないということで二流扱いされてきたわけです。その基本原理を変えたらどうか。むしろ他者に頼る依存した弱い個人を社会の基本原理にしたらよいのではないか。依存を原理として、支配―被支配の関係を減らしていく。そのように関係を組み直していったら、もう少し生きやすくなるのではないか。何も自立支援なんて言わなくてよくなるのではないか。

(自己決定できる)自立した強い個人 → 「自立」は原理(「依存」は病理)

(他(者)に頼る)依存した弱い個人 → 〈依存〉は原理(「支配」は病理)
社会の基本原理(市民の条件)

ここで注意してほしいのは、私が言っているのは、もっと頼り合おうという話ではないんですね。もっと頼ろうというメッセージにしてしまうと、頼ることの上手な人と下手な人を分けて、一部の人にしんどさを押しつけてしまうことになる。あるいは、もっと頼れる能力(テクニック)を身につけよう、みたいな話にからみとられてしまう。そうではなくて、ほぼ全員が依存しているという現実を直視して、そもそも自己コントロールのほうが妄想なんだから、そんなものを捨てませんか、そういう努力をしませんか、ということです。一部の人に、マイノリティに責を負わせるのではなくて、問うべきは常にマジョリティの側だということです。

ただ、いま思えば失敗したなと思うのは、この本を書いた時点では、社会の基本原理を“(他(者)に頼る)依存した弱い個人”としていて、個人から抜け出していないんですね。ここは、“他者に頼る依存した弱い私たち”としておくべきでした。自立した個を問いつつ、私自身が抜け出せてなかった。

自立ではなく自律ならよい?

こういう話をしていると、よく自律(autonomy)ならよいのではないかと言われることがあります。たしかに自律というのはリベラルっぽい言い方ですが、それも自己支配に過ぎないので、後生大事にしておかなくてよいと思います。個の自律など幻想でしかない。社会福祉学者の岩田正美さんは、経済的自立・身辺自立と自己決定の「自律」との分離にどれほどの意味があるのか、結局のところ、それは自己や自己決定の可能性を盲信する「近代社会」を何の抵抗もなく受けいれた議論でしかないだろう、と批判しています。

自分のことをほかの人に勝手に決められたくない、自分自身で決めたいと思うのは当然のことで、尊重されないといけないことです。しかし、はたしてどこまで自分のことを自分で決定できるのかということは、問い直さないといけない。自分のことは自分で決めたい、他者に支配されたくない、ということと、ぜんぶ自己決定する、自己支配したいということは似て非なるものです。後者は、結局のところ個の自立ということになる。私は「自分で自分のことを決めたい」の先にあるものを考えたいんですね。

具体的にどうしていくか

さて、具体的にどうしていくのかを考えないといけないですね。私は3つアプローチを考えています。

ひとつめは、支配(自己統治)から降りる。たとえば、AA(*1)の12ステップの最初に、「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」とあります。支配(自己統治)の原則から降りて、依存している自己を認める。ただ、注意が必要なのは、「誰が(認めるか)」の視点です。依存症の人だけに認めるよう要請していてはダメで、“私たち”の自己統治・自己コントロール幻想を問わないといけない。依存していると見なされた人たちだけが考えるべきということだと、結局はいまの社会構造を強化してしまうだけになってしまう。私たち全員が、自分の在り方として、考えないといけません。

ふたつめは、支配(害)を弱める。たとえば、ハームリダクションです。ハームリダクションというのは、害を減らすという意味で、薬物依存症に対するアプローチのひとつです。日本ではゼロトレランス(寛容ゼロ)が主流になっていて、よくメディアでも薬物を使用した芸能人が叩かれてますね。“ダメ、ゼッタイ”の方針です。それに対してハームリダクションは、薬物使用は起こりうることとして、その人の身体や精神に著しく害をおよぼすのを低減させていく方針です。厳罰化ではなく、清潔な注射針を配ることで、針の使い回しによるHIV感染のリスクを避けるとか、粗悪品よりも依存性の少ない薬を配るとか、非犯罪化、一部合法化するなどの対応策がとられています。使用と濫用を区別するんですね。このハームリダクションの発想を援用して、ほかの「依存」についても、自己統治や自己コントロールの失敗を問うのではなく、“使用(=頼る)”と“害(=支配)”に分類して、“支配(害)”を弱めることを目指すことはできないか。そのような発想に基づいた制度や支援を構想したいと思いました。ただ、その害を誰が区別するのかという根本問題があるので難しいですが、ゼロトレランスではない支援のあり方、自立のためではない、その人にとって大切なものが害されていることを減らしていく支援というのはあり得るのではないかと思っています。

みっつめは、支配から逃げる。そこで考えられる施策のひとつは、ベーシックインカムです。ベーシックインカムも、注意しないといけないのは、竹中平蔵の言うような新自由主義的なベーシックインカムというのは、導入する代わりに年金や生活保護を廃止するとか、お金の効率の問題になっています。しかし、本来はそういう話ではなくて、一番大事なのは無条件性です。人の生存に必要な基本所得を保障するのに条件をつけない。自立するために就労努力をするとか、朝ちゃんと起きるとか、投票するとか、そういう条件をいっさいつけない。もちろん慎重に考えないといけない面もありますが、無条件性はとても大事です。それは制度からの支配をゆるめる助けになる。いまの生活保護制度なんかは条件だらけですからね。

支配から逃げるというのは、支援から逃げることでもある。最近は支援から逃さない偏執的な支援が増えてきて、たいへん気持ち悪いことになっています。近年では「自立支援」の別バージョンとして、寄り添い型、伴走型の支援がありますが、これも場合によってはこわい。あと「支え合い」も要注意で、「支配し合い」の言い換えになるだけのおそれもあります。ここでも、リベラルっぽい響きには要注意です。

「居場所」というのも、そういう試行錯誤から生まれた言葉だと思いますが、これも最近は権力側に使われていますね。それをどう取りもどすのか、ほかの言葉を模索するのか。私は、いまとなっては「居場所」よりも「逃げ場所」のほうがよいのかなと思っています。逃げ場所=アジールをどう確保できるか。

以上、3つのアプローチを考えてみました。後ろ向きっぽいと思われるかもしれませんが、さしあたっては、こういう視点から考えていかないといけないのではないかと思っています。

批判しつつ継承

私の言っていることに対して、「障害者の自立生活運動(Independent Living Movement)についてはどう考えてるの?」と聞かれることがあります。「自立」概念を、福祉の利用者側が自分たちの言葉として組みかえようとした運動に、障害当事者の自立生活運動があったんですね。近年イギリスでは、自立生活運動を契機に設立された自立生活センター(CIL=Center for Independent Living)のことを、Center for Inclusive Livingと呼ぶこともあるそうです。運動を牽引してきた“強い”障害者たちの「自己決定による自立概念」を問い直して、「人間はすべて相互に依存し合っている(inter-dependent)のだという認識」を基盤としているということです。

対抗運動の側が、自立という言葉を使ってきたことも、いまとなっては問い直されないといけないと思います。ただ、当時の状況のなかは、私たちの生き方も自立なんだと言う必要はあったのだろうと思います。ですが、当時必要だった言葉を、現在の私たちがそのまま使い続けることが先人に敬意を払うことではないと思います。先人の努力を損なうことではなく、批判しつつ継承していくことが必要だと思います。

もうひとつ、自律の話では、「イタリアのアウトノミア運動をどう思うか」と聞かれることがあります。いまは、自律(autonomy)は「個人が自己決定できる」こととして理解されていますが、イタリアの70年代のアウトノミアの理念は、「自己決定できる」ではなく、「生産手段を資本に委ねず自分たちで管理する」というものでした。このちがいはとても重要だと思います。対抗性はやはり大事です。何から支配を受けて従属させられているのかを問わないといけない。

この奪還して自主管理した場所を「逃げ場所」として考えてもよいかもしれないですね。とりあえず、私の話はここまでとしたいと思います。

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