講演会:渡辺位さん「不登校は文化の森の入口」

迷子を辞めるには

最近、迷子になったんです。自分の住んでいる街を歩いて40分くらいで着くはずなのに、いくら歩いても着かないんですね。数年前にも行ったことがあったところだったんですが、どこでどうまちがったのか、途中で道がわからなくなった。時刻を決めてあったので、あわてたり焦ったりして、迷子になったと思った。週日の昼間は、住宅地だから、人もいないし、公衆電話もない。携帯電話なんてものも持ってない。焦りましたね。

しかし、そこで気づいたんです。なんで迷子になったのかなと思った。ただ、たんに道をまちがえたから、それで迷子になっているというだけではない。そこで焦ったり慌てたりしている。なんで焦るのかといえば、何日、何時に必ずそこに到着しなくては、という目的があるからなんですね。だから、迷子をやめるには、電話して約束をキャンセルすれば、それで迷子ではなくなる。いままで歩いたこともない知らない街を歩いているんだから、そこに物めずらしい新しい発見も感動もあったはずなんですね。しかし、そんなことやっているヒマがない。

人生もそうなんだなと思ったんです。人生で迷うこともよくあって、あわてたり焦ったり、葛藤することがありますが、それも何が何でもこうでなくてはならないという目標や目的を持つから、その通りにならないと、迷ったり、悩んだりする。しかし現実なんて、何ごとにつけ、よく言うことですが、なるようになるけど、なるようにしかならないんですよね。

だから、迷子になったら、迷子をやめればいい。つまり、人生に迷うことがあったら、何がなんでもといった物事へのとらわれを捨てればいいんだと思いました。

生きるということ

生きるということは、月並みな言い方をすれば、生きがいのある“生”が営めているかどうか、ということだと考えます。

摂食障害の末、餓死に近い状態で亡くなる場合もあるようですが、それは食糧や経済に行きづまったためではなくて、いまの自分のありようや存在が、ある考え方からすると自分自身で受けいれられないことによるためではと思われます。

“生きる”ということは、何か特別なことをするためとか、目的をもってではなくて、ただただ、日々の生活のなかで、生きていてよかったと素直に実感できるかどうかにあるのではないでしょうか。時々刻々、めぐりあう外界(自己内面も)の状況に、ごく自然に、そして新鮮さをもって揺さぶられる心が持てる、感動できる、ということです。

社会の常識、理屈などの枠組みや尺度に縛られて自分の内面にわき出す感性をいつも否定していては、そのような心の感動は得られません。

不登校状態にある当事者のなかには、死にたい、消えてしまいたいと、自己の存在を否定される方が少なくありません。それは、生きることへの方向や目的など、大人たちの示す枠づけを取り入れて、生きがいを失うからと言えるでしょう。

人の“生きること”の価値は、自然の営みそのものの中にあるのだと考えます。自然の営みに謙虚であることこそが、生きることへのこの上もない保証だと思っています。

「文化の森の入口」のわけ

私は、登校拒否・不登校と付き合っているうちに、いつの間にか表面的に物事を見るのではなく、もう一歩踏み込んでみたり、逆の見方をしてみたり、なぜなんだろうと改めて疑問をもって考えてみることが日常的になって、新しい発見や感動をたくさんもつことができたと思います。

精神活動によって新しい価値を創出すること、そして、それによって人間の営みを充実、向上させることが文化なんだそうですね。

私にとって、不登校・登校拒否と出会ったことは、自分自身の今の生きようの一つのきっかけになったんです。だから「文化の森の入口」だと思ったのです。

最近は、迷子になったりするし、だいぶボケてきたけど(笑)、生きているかぎりは、まだまだ新しい発見も創造もあると思います。ありがとうございました。

  

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