講演会:渡辺位さん「不登校は文化の森の入口」

ネコは何と鳴くか

私はネコとのつき合いが長くて、いまも3匹のネコがいます。そのうちの一匹のネコは、なんて鳴くと思いますか? ネコは一般に「ニャーニャー」と鳴くと思われてますが、そのネコは「ワンワン」と鳴くんです。イヌほどの迫力はないですが、興奮すると、ますますワンワンという。

このネコは、去年の1月半ばごろから「修行」をはじめたんです(笑)。道元禅師の『正法眼蔵』に、「只管打座」という言葉があります。ただ、ひたすら座りなさいという意味で、香をたいたり、お経を読んだり、拝んだり、そういうよけいなことをするより、ただひたすら座れというような意味です。しかしもっと深い意味は、ただひたすら“存在”せよという意味だと思っています。非常にいい言葉だからと思って、コピーして額にいれて戸棚の上の壁に下げておいたんですね。そうしたら、その額の前に座るようになったんです。まさか座禅はしませんが(笑)。その理由として、そこが暖かいからだろうとか、何か映るんだろうとか、いろいろ憶測してみましたが、なんで座るかはわからない。

私も以前は、本来の「ネコ」といえるネコがいると思ってたんですね(笑)。以前、親の会で、「典型的なネコを描いてください」と言って、描いてもらったことがある。しかし、典型的なネコなんていない。ということは、これこそ本当のネコですと言えるネコなんかいないということになります。だから、うちには3匹のネコがいるけど、「ネコ」はいなくなっちゃった(笑)。家出したんじゃないですよ。何ごとも一つの枠や尺度では決めつけられないものだと知らされました。

もう1匹のネコは、感動すると「ワオ!」と言います(笑)。このネコは、ブラシをかけてやらないと気が済まないんです。朝の9時半になると、必ず来る。膝の上でコロンコロンして、そのうち、そのネコなりにOKになると、自分で自分の体を舐め出す。しかし、こっちが別のことを考えていたり、ついテレビがおもしろかったりで、気が散っていたりすると、いつまでもOKにならない。気を入れるという言葉があるが、そのネコとの関わりには、その状況にこっちもひたりきって、それになりきったとき、満足する。それがネコにはピンとわかる。その場になりきるということ。

人が人と関わるときも、それは状況にもよりますが、たがいにその場を共有する、共に在るということは、そういうことなんだろうと感じました。

一方的な関係では……

去年の暮れ、ある高校で講演を頼まれたんですが、そのときのテーマが「いまどきの高校生と付き合うには」というものでした。このテーマは、考えてみると、ちょっと変です。「いまどきの高校生」と言った時点で、付き合うということは断絶している。なのに、「と付き合うには」というのは矛盾しているでしょう。

しかし、そういうことがけっこうある。以前、不登校を経験され東京シューレに長くいた方と話し合ったことがあったんですが、その方が、よく「いまあなた何しているの?」と尋ねられるんだと言われるのです。尋ねるほうは“今”とは言っても、相手の本当の“今”より、尋ねる自分が決めている相手の状況を考えて発言しているわけです。この場合、自分が相手と向き合っている“今”を考えたら、「いま、あなたと話しているよ」と言うのが正しいんですね。本人を前にしながら、本人を忘れているわけです。

子どもを前にしながら、子どもとコミュニケーションをとれないとか、うまく会話が成り立たないとか、言われる親の方がおられますが、子どもが親にとって、ある状態を呈していると思えたら、その状態を誘発するようなことを親自身が子に対して今していることに気づかないといけない。自分中心の一方的なコミュニケーションを求めていれば、コミュニケーションなんて成り立つわけがない。コミュニケーションとか会話とかは、相互性のなかで成り立つものです。学校もそうでしょう。学校の先生が子どもに求める約束は、たいてい一方的で、約束じゃない。強制的命令で、相互性がない。

大人は、子どもに「死にたい」と言われたとき、「命は大事だ」とか、もっともらしい話を聞かせたりしますが、少なくとも、子どもが「死にたい」と言っているとすれば、それは、その大人との相互関係のなかでの発言なんです。だから、その状況のなかでの発言なんだと考えなくてはいけない。お母さんに言ったとすれば、お母さんといるのに生きがいが持てないと感じての発言かもしれない。日常会話はアドリブでしょう。その場そのときでの言葉。ただのサインではない。おたがいがおたがいの気持ちや態度を誘発している。だからAさんがBさんに会っているときは、Bさんに会っているAさんであり、Cさんに会っていたら、Cさんに会っているAさんになる。おたがいがおたがいを規定し、創出しあっているんです。

こうしなさい、ああしなさいなど、言葉で何を言ったかではなく、親が「うちの子はいつまでもこもっていて」「このまま学校に行かなかったら先々どうしよう」などと思っているとすれば、そのような親と子との相関のなかで、いろいろなことが起こってくることは想像にかたくないですね。弱い子、困った子と親が決めつけてしまえば、その子自身、自分はそんな子だと思ってしまうものです。

心はどこにあるか

あるとき、教育関係の職員から、「心はどこにあるんでしょう?」と聞かれたことがあって、そのとき、私は「場でしょう」と答えたんです。おたがいが、おたがいに関わりあって、ある場をつくっているときに、そのたがいのつくる場に現れる精神現象が心では、ということ。だから心は、個人の内面のなかに固定してあるのではなくて、場のなかにある。外界との相関の場ですね。だから、場が個人の内面であることもありますが。

ある科学雑誌の座談会で、最先端の脳科学研究者の言葉に、似たような発言がありました。脳というのはデザインも目的も持っていない。はじめからある目的があって、神経繊維を伸ばすのではなく、そのときどきの状況のなかで、それにふさわしい神経繊維のネットをつくっていくのだそうです。つまり、“今”という刹那と無関係に目的やそれに沿ったデザインを先走って計画しているのではない、ということです。

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