講演会:渡辺位さん「不登校は文化の森の入口」

何と面接していたのか?

私は20代の後半から精神科医をはじめました。いまは薬の種類もたくさん出てきて、強迫神経症なんかは薬物療法の対象と考えられている。それがいいかどうかは別として、現実の医療現場ではそうなってきているようです。しかし、昔は薬といえば眠り薬ぐらいしかないので、神経症といえば、むしろ心理療法、精神療法が主流でした。

それは、具体的には面接をするわけですが、指導・助言をしてくださった上司が「心理療法のゴールは理解すること」と、くり返しおっしゃっていました。しかし私は、心理療法のゴールは相手を自分の基準に合わせて変えることだと思いこんでいたんですね。

だから、理解することが大事だと言われると、相手の人の状況を学問的に理解することだと思って、一生懸命本を読んだりしていました。だから、せっかく相手の人が目の前に来ているのに、その人自身を見ないで、読んだ本の何ページの何行目に何が書いてあったとか、そんなことばかり考えていた。何と面接していたんでしょうかね? その人が来るというのは、自分が知識を得るための本を読むきっかけだけ。だから、本と面接しているようなものでした。本は理解しても、その人を理解していることにはならない。たとえば、相手の状態に強迫神経症という診断名をつけたとすると、面接に来るのは強迫神経症が来るわけじゃない。そう診断された人が来るのに、その人をどっかにやってしまっていた。自分のつけた診断名にとらわれて、当の人そのものの存在を忘れていたわけ。

そこに気がついたとき、結局、理解するというのは、相手の状況を理論的に理解するというのではなく、自分が相手とどう関わろうとしているのかを理解することだと気づいたんです。つまり、面接しようとしている自分自身のありようですね。

大人が子どもに関わるとき、まったく同じことが言えると思うんです。大人の思いこみで子どもを決めつけたり、追い込んだりしていないかって。

くるみの実は

うちにくるみの木があるんですが、実が地面に落ちると、自分から殻を割って芽が出てくるんですね。当たり前といえば、当たり前の話です。ところが人間が殻を割ろうと思っても、固くて、簡単には割れない。それなのに、イモムシにだって簡単にかじられてしまうくらい柔らかい芽が、大地と出会ったとき、あの固い殻を破って出てくるわけでしょう。これは、命ある生き物はみな、その条件さえ整えばそれなりの動きを自らするものなんです。この自然のメカニズムには、いたく感動しました。

自然界にはもともと、生き物が生き物として存在するための掟、というか原理原則があるんです。宇宙の意志でもある。その宇宙の原理原則、意志と人間の意図とはイコールではなく、むしろ相反することが多いんです。だから子どもだって、これは生き物ですから、大人の思いこみで一方的にどうにかすれば済むものではなく、子ども自身にとっての条件をおろそかにしてはいけないんだとわかってきます。

前提を疑う

世の中にはネコがいたり、犬がいたり、ヒトがいたりしますが、よく考えてみると、それぞれはもともとネコ、犬、ヒトというものではなく、それは人間が勝手に枠はめして分類されたものですよね。つまり、元来、本質的な実体として存在しているわけではない。たとえば、(ボールペンを手にとり)これはボールペンだと思っている。たしかにボールペンとして製造されたのだろうけど、このとがった先で頸動脈でも狙えば凶器にもなる(笑)。腕時計だって、時計としても使いますが、風の強いときに、ちょっと書類を押さえるのに文鎮がわりに使ったりもしますでしょう。いつも一つの物は固定的にその機能だけを果たしているわけではない。

戦争中、せっせと国家の命令で殺人をしていた人は勲章をもらっていたのに、戦争に負けたとたんに犯罪人になる。世の中の価値も逆転するし、固定的なものではない。登校、不登校も同じでしょう。だから、よく考えてみると、この現実の社会はそういう幻想世界のなかで物事を区別しているにすぎない。

つい、我々にはいろんな理屈があって、物事はすべて理論で解決できるかのように思いこまされています。つまり、理論は何ごとにつけ絶対不変であるように、うっかりすると信じてしまっている。でも、その理論は、その前提がなければ成り立たないものですね。

本当の話かどうかわかりませんが、エジソンは子どものころ、なんで3+5=8になるのかわからなかったそうですが、改めて考えてみると、数理論的には、十進法だから8になるわけですよね。五進法だったら13になる。エジソンも、もしかして、そういう前提について考えていたのかもしれない。だから、何かに行きづまったら、その発想の前提を変えてみる、あるいは考え直してみることだと思います。流動的に、もっとちがった筋道を考えてみる。

たとえば車が穴に落ちてしまったとき、前に進もうとすると出ないけど、バックにすると出ることがありますでしょう。前進を目的にしてるんだから、とこだわると、いつまでも出られない。従来の常識とか理屈だって、ただただ絶対とするのではなく、一回疑ってみる。あるいは、なぜそういう考えが出たのか、根源にまで遡って考えてみる。そのように、いかにして柔軟な発想が持てるかどうか。人が生きるうえで、そのあたりが大切だと思うのです。

不登校問題だって、子どもは学校に行くものだ、という前提で問題になるわけです。あるいは学校は絶対的に大切なところと決めるから、学校でうまくいかないと「学校不適応」という。

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