インタビュー:野崎泰伸さん「生の無条件肯定を」

さまざまな生を肯定する倫理を

津路:野崎さんの著書を読んでみて「生の無条件肯定」という概念を通して見えてくるものがあると思いました。僕が考えたのは、「物乞い」の可能性です。ふつうは何か対価のある活動をしなければお金や食べ物はもらえない。物乞いという行為が成立するのは、よくよく考えたらすごいことだなって思ったんです。自分には「価値」がないことを人にさらす。そこには嘲笑やあわれみがあったりする。それは仕事をするよりずっと大変で、僕にはその勇気がありません。健常者のほうが難しいのかもしれない。逆説的ですが、そういう意味では障害者のほうに可能性があるのではないかと感じました。

野崎:『生を肯定する倫理へ』は、副題が「障害学の視点から」なんですね。ほかにも、不登校やひきこもり、ニートの視点から、フェミニズムの視点からというのがあってもいい。いろんな視点から「生を肯定する倫理」を構築していったら、おもしろいんじゃないかと思います。

物乞いの話で思い出したのは、青い芝の会はカンパを集めるときに、「生活するのは生活保護で困っていない。だけど僕らも旅行に行きたいんだ」と、駅前でカンパを募ったんですね。実現するほどは集まらなかったけれど、「生活保護で生活できているけど旅行させろ!」というのは、けっしてぜいたくではないと思います。

でも、おっしゃるとおり、物乞いするのは大変な労力でしょうね。その可能性を考えるというのは、おもしろいと思います。

山下:「物乞い」と聞くと托鉢が思い浮かびますね。お坊さんが托鉢してまわるっていうのは、食べていけない「かわいそう」な人にめぐんでやるというのとは、ちがいますよね。働かずに仏道を追求することに価値を見いだして、そこに寄付している。そういうふうに宗教は成り立ってきた面があるように思います。

野崎:キリスト教が専門の知人に「野崎さんの考え方は、イエスの考え方にすごく近い」と言われます。たとえば聖書にぶどう園のたとえがあります。ぶどう園で、朝から晩まで働く人も、夕方に来てちょこっと働いた人にも同じ額を渡す。その考え方と近いとよく言われます。

山下:「宗教」ではなくても、資本主義だとか世俗の価値観に対して、何かよりどころになる芯みたいなものが必要なんだろうと思いますね。

野崎:拙著では、障害者がこうやってしたたかに生きている現実があるってことも伝えたかった。それは「事実」と「価値判断」のつなぎのような役割を果たしてくれているんじゃないかと思います。生きることが達成されるには、それを保障する制度や思想が必要ですからね。だから、障害学の視点からだけでなく、いろんな視点からの「生を肯定する倫理」を考えていけたらいいなと思います。

津路:野崎さんは、具体的に、どのような状況であれば生の無条件肯定が達成されたとお考えですか?

野崎:抽象的な言い方しかできませんが、「まあ、みんながぼちぼち生きられたらいいよね」と思います。その「ぼちぼち」というのは、人によってちがうかもしれないけれども、そこで「ぼちぼち生きるってどういうことなんだろう?」と開かれた場所で話し合えることが大切だと思います。誰かが「こういうものだ」と決めつけるのではなく、かといってバラバラでも困る。そこにこそ民主主義の可能性があるんじゃないでしょうか。

山下:「正解」が崩れている時代だからこそ、逆に可能性もあるのかもしれませんね。そういう動きは、いろんなところで起きている気がします。

津路:当事者ニーズだけじゃなくて思想みたいなものが大事だと思うし、日本にはそれを育てる土壌がとぼしいように思います。

賭けることのできる「真ん中」

野田:「なるにわ」は「真ん中には何もありません」というコンセプトでやっている場です。ドーナツ状の場をゆらゆらと行ったり来たりするのもおもしろんじゃないかなと思いながら、いまの話を聞いていました。

野崎:「真ん中に何もない」っていうのは、別に何もなくてもいいし、逆に何かをそこに置いて育てていける可能性に開かれているんじゃないでしょうか。そこを埋め立ててしまったら、おもしろくない。

山下:たとえば「生の無条件肯定」を真ん中に置いたら、当事者性のちがう人が話し合える場になりますよね。それを媒介するのが「倫理」の役割なのかもしれない。

津路:そういう意味でも思想は必要だと思います。「生の無条件肯定」という思想を打ち立てた野崎さんには敬意を覚えます。

野崎:いろんな系譜があって考えたことで、私がひとりで考えたことではありません。ただ、人と出会って自分がガラっと崩れてしまう。でもそこからもう一度やり直してみるということが、私自身の原体験としてありますし、それは自分の人生にとってよかったなと思っています。

津路:でも、それっていいことばかりじゃなくて、自分のドロドロした部分を見ることになります。たとえば倫理的に助けるべきでも、めんどうくさいから助けたくないとか。なかには葛藤も持たず助けもしない、という人もいるかもしれない。きれいごとだけでは思想として弱いと思います。

野崎:きれいごとじゃすまないっていうのは、よくわかります。それと、「助けないのか、助けられないのか」というのは、今までの倫理学が曖昧にしてきたことでしょうね。適当に理由をつけて「助けることができない」と言っているのは、結局は「助けない」ことを合理化しているだけではないか。そこを問い直したい気持ちはあります。

山下:まあ、現実がドロドロしているからこそ「きれいごと」が必要だとも言えるんじゃないでしょうか。「どうせ現実はこうなんだ」っていうニヒリズムは、結局は自分の世界を狭めるし、対立関係を生んでしまう。現実はそんなにきれいにはいかないけれど、その上で葛藤を孕みつつ、自分を照らしてくれる倫理を持っていると、自分を開いてくことができるんだと思います。

野田:反発があったり、こいつはすごくイヤだなとかってあると思う。だからこそ、真ん中が大事ですよね。野崎さんは「賭ける」という言葉を使われましたけど、賭けることのできる真ん中……。

野崎:常識とはちがう視点で物事を見ることが、津路さんが言うような抽象的な思想を育てることにつながっていくのかもしれないですね。いまのこの場も、まさにそうだと思います。異なる他者が顔を突き合わせて語り合っている。私自身もなにかしらを得ることができたし、みなさんにとっても得ることがあれば幸いかなと思います。

一同:ありがとうございました。

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