対談:あらためて「当事者」について考える

タブーになりがちな話

のび太:最近はコロナの影響で、ひきこもることはめずらしいものでもなくなったと思いますが、ただ、コロナによる経済的な影響が大きいので、僕自身も、正直やばいです。コロナ禍でも、とくにお金のない人が一番ワリをくっているんですよ。でも、ひきこもり界隈では、お金の話はタブーになりがちなんで。

山下:そうですね。お金の話はそれぞれの状況の差を際立たせてしまうところがあるので、触れにくいところがあるように思います。でも、ちゃんと考えないといけないところで、そういうことも話せる機会をつくっていきたいですね。

のび太:ひきこもりのなかでは、不登校経験者は少数派です。不登校の場合は、まだ子どもだからと見守られる面もあるかもしれませんが、大人に対する目はきつい。社会に出てからのほうがきついです。

山下:かつては、不登校から社会に出られない人がひきこもりになると言われていたところがありますが、内閣府の調査によれば、大人になってからの人のほうがずっと多いですよね。

のび太:それと、僕の場合は、不登校もできなかったしね。お金がなかったらフリースクールにも行けない。お金のない人は不登校したくてもできないところがある。そういうところが、抜け落ちてきたところもあると思います。無理して学校に行っている人の意見はあまり聞かないです。

山下:そうですね。学校に行かないことの苦しさと、学校に行くことが苦しいということは、同じ構造のなかでの局面のちがいだと思います。これも、ある語りが切り落としてしまう面でしょうね。

ズレがあることを大事に

もと:話がもどるんですが、貴戸さんが、不登校運動のなかでは、不登校でも社会で問題なくやっていけると語られていたと話してましたね。私は、不登校運動についてまったく知らなかったんですが、運動の声と社会一般の見方は一致していたのかなと疑問に思いました。一般社会で、不登校でも問題なく働けると言っている人なんていたのかなと思うんですね。そこにズレがあったのかなと。精神障害の場合もそうなんですが、運動している人と社会一般の認識にはズレがある。もう少し、そのあたりを聞きたいんですが。

貴戸:なぜ、不登校運動において、「不登校でも社会に出ていける」という言い方をしていたかというと、「不登校なんてしていたらロクな大人になれない」と、世間がいろんなかたちで子どもや親に伝えていたからですね。学校の教師も、「学校にも行けないようなヤツは働くこともできない」なんてことを、ふつうに言っていました。そのことで、子どもや親が傷ついて、しんどい思いをしていたわけです。そういうものの見方に対して、いわばカウンターとして出てきた言葉だった。

不登校して、学校には行かないけれども、フリースクールに出会って、そこで安心感を得て、学校とはちがう、自分の興味関心にベースを置いた学びをしていくなかで、ほんとうは自分はこういうことをしたかった、こういうことを学びたいという目的ができてきて、その後、自分なりに社会のなかで身の置き所を見つけている。そういう人がいるということを、運動の側は発信していた。そのことには大きな意義があったと思います。それは世間があまりに無理解だったからです。

でも、それは、ふつうに学校に行っていれば問題なく就職できるという時代のなかで出てきたものですね。そういう構図が90年代後半以降、大きく揺らいでいった。ふつうに学校に行っていても、ハシゴを外されるみたいに就職が難しくなる若い人がたくさん出ているなかで、不登校でも社会に出ていけるというような言説では、この社会の構造を問うことができないのではないか。むしろ、構造的問題を個人に押しつけていることになってしまっているのではないか。それが私の問題意識でした。

もと:よく理解できました。ひとりひとり経験があって、文脈もあって、そこで言葉だけで対話しようとしても、さかのぼって文脈を教えてもらえないとズレとか誤解が生じると思いました。なので、テーマ設定が大事かなと思いました。

山下:そうですね。ていねいに進めていきたいと思います。ただ、ズレは生じさせてはいけないということではなくて、生じたときに、そこで対話したいなと思うんですよね。ズレがあることを大事にしていると、そこから見えてくるものがあるように思います。

もと:でも、なんの話をしているかわからなくなったり、見失いやすかったり、結局、軸はどこなんやと思ったりしないですか。

野田:たしかに、話を聞いていて、軸が移動している感じはあって、それについていくのがたいへんなときもあるかなと思いました。整理できている人ほど、ほかの人の文脈にもコミットしやすいと思いますが、一個人では、難しさがあるかなと思いました。距離感や知識のある人に助手のような役割をしてもらえると、対話はしやすくなると思いました。

貴戸:文脈がとても個別化しているので、文脈を越えて話すことが難しくなってますよね。不登校だけでも複雑怪奇で、イチから話そうと思うと、すごく長くなってしまう。そうなると、ますます話の通じる人とだけ話すことになって、個別性が強化されてしまう。ハジコミという企画は、文脈を越えて対話しようということですが、そのためには、文脈ごと翻訳して伝えることが必要になる。

それと、文脈に固有の言葉づかいがありますよね。たとえば、山下さんの話には「考え合う」という表現が出てきますが、これは不登校運動出自の言葉ではないかと思うんです。「考え合う」とか「育ち合う」とか、主体が関係性にとけていくような言葉が使われてきたように思います。そういう言葉づかいひとつのなかにも、長い歴史がとけこんでいる。その運動が一番コアに大事にしてきたものは何か、言葉の根の部分をさぐりながら、翻訳しながら対話する。そうすることで、言葉上だけの揚げ足とりをしないですむと思います。たとえば、「不登校は治らないんですか」って聞いてくる人とか、自己責任論を言うような人とも対話できるかもしれない。

柳:言葉にならないようなものを大事にするというメディアはあまりないと思いますし、微妙なところ、切り落とされてしまうところを拾うメディア、まとまらないメディアというのは魅力的だなと思います。でも、とてもわかりにくいことでもあるので、話についていける人が少なくなってしまわないかな、という懸念もありますね。狭い世界で、一部の人だけがわかるというようなことだと、社会一般には伝わらない。それでいいのかもしれないけど、難しいところだなと思いました。わかりやすくすると、切り捨ててしまう問題がある。でも、わかりにくかったら、一部の人にしか伝わらなかったりする。そのバランスは難しい。

貴戸さんも言うように、不登校を克服しようとか自己責任とかを言う人とも、話をしてみたいですね。異なる意見も話せる空気は大事だと思います。

のび太:でも、自己責任論者には要注意。

柳:そこでざわめくことも含めて、書いていったらいいのかなと思います。もちろんブレーキは必要だと思いますけどね。

山下:今日は、ハジコミ企画のキックオフとして、貴戸さんと私で対談をして、意見をいただきながら進めてきました。ベースとなる問題意識を話していたので、抽象的になってしまった面もありますが、具体的な話は、今後の活動のなかで進めていきたいと思っています。参加者も、人それぞれ文脈も背景もちがいますし、テーマやインタビュー候補も、ぜひ持ち込んいたていて、いろんな視点、角度から、考え合っていきたいですね。ということで、これから、よろしくお願いします。

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