インタビュー:栗田隆子さん「呻き、対話、うっかり」

天使と出会う

野田:話を戻すと、先ほどの図式のてっぺんにどんな名前をつけるのかは人によってちがうとしても、このてっぺんの存在を、私はわりと信じています。キラキラしていて、上のほうにいる。人の意図や意思を超えた存在ですね。人間はそんなに何もかも、自分でコントロールできる存在じゃないんだよって気づかせてくれる瞬間がある。その瞬間にすごく、いま神さまがいたなって思うんです。栗田さんにとっての「いま神さまがいたな」っていう瞬間は、どんな感覚ですか?

栗田:いまの野田さんの話と、すごく近いと思います。努力して理解するんじゃなくて、はっとする感じですよね。気づくという感覚やひらめきなんかは、神さまが近い気がします。

野田:そういう意味では、日常に神さまは宿りますよね。私には、他者が神さまに映るときがあります。はっとすることを誰かが言って、「ああいま、一瞬神さまが通ったな」って。

栗田:私はそういうとき、天使とお呼びしています。

野田:なるほど。はっとする、気づきをくれる他者は天使ですか。それはおもしろいですね。

栗田:中島らもの「今日の天使」というエッセイがあるんです。中島らもがうつの前の時期、原稿は書けないし、仕事は溜まっているし、家ではゴチャゴチャあるわで、さんざんなときに、「やきいも~。やきいも~。ほっかほっかのやきいも~」っておじさんがやって来て、それが今日の天使だったという。一気に力が抜けたらしい(笑)。

森下:偶然ということですかね。自分の外から来るもの。

栗田:そう。私は「おぼし召し」とか「神の摂理」って言葉はきらいなんです。そこは余裕を残しておきたくって。天使が来た、出会ったくらいに留めておきたいですね。摂理というと自分の解釈に無理やり引き込んでしまう感じがする。たとえば「この病気になったのも、神さまが気づかせてくれたおかげだ」とか、それはそう思いたい場合もあるかもしれないけど、気づきというのは、もっと期待もしていないし、「こうであるべきだ」という感覚もないときに、はっとやって来る感じです。

うっかり同盟

山下:神さまは聞いてくれる。呻きのような言葉にならないものも受けとってくれる。それは、人間どうしのあいだで共有できる、あるいはできないことと、どういうちがいがあるんでしょう。

栗田:ある人に「栗田さんは近づこうと思えば近づけるんだけれど、いつも1枚うすーいベールがかぶさっている気がする」と言われたことがあります。私にはそれは呻きが他者には伝えられないことの象徴な気がして。そこは共有するというレベルの話ではないと、どこかで思っているのかもしれません。神さまの領域というのか、私と神の関係の話だと。だから「呻きをわかってあげよう」みたいな人はすごくイヤかもしれない。いまはもう歳を取ってきたからあんまりないけど、若いころはメンタル的に守ってあげようとか、ヘンな人が近づいてきたりすることもありました。でも「それはちがう」って、そこには収まらなかった。

山下:そこは侵入されたくないんですね。

栗田:「そこは呻くよね」っていう共感はいいんですが、「呻かずにすむようにしてあげましょう」はイヤです。

山下:呻きの部分に、他者に侵入されたくないというのはわかります。ただ、うっかりに関しては、「うっかり同盟」というか、うっかりでつながる感じは持てますか?

栗田:祈りに対しても私は実践的だけど、つながりに対しても、あまり抽象化せず、具体的にどういうことをするのかが大事な気がしています。実際、プロジェクトか何かを始めると、そこで困ったことはいろいろ起こるじゃないですか。そういうときに、どうしようああしようと話し合うことが、私にとってのつながりですね。

山下:何かを始めると、そこからこぼれてしまうものは、どうしても生じてきますよね。こぼれるからダメということではなくて、こぼれるものへの感度が大事なのかもしれないですね。こぼれるところから人がつながっていくこともできるけど、つながることそれ自体を目的にしてしまうと、それは「うっかり」ではなくなってしまう。

栗田:そうなんですよ。つながるというのは出会いと似ていて、たまたま生じるところにしかない気がする。「うっかり同盟」は、いつのまにか立ち現れてくるものでしょうね。

山下:だけど、そこに感度がある人とない人って、やっぱりいますよね。

栗田:センスというかね。私がある種の活動家になれない理由は、そこにあるのかもしれない。活動家って目的を遂行していくんだよね。

山下:うっかりや呻きに目をつむって、そういうものをなかったことにしないと政治闘争はできない感じはありますよね。

栗田:「それはそれとして、動かしましょう、やりましょう」ってね。それがまちがいだというわけではないですが、私にそれを期待されても、それは無理なんだなって気づいたんです。

賽の河原の豊かさ

森下:「展望」という言葉は、ジャッジする側の言葉かもしれないですが、栗田さんの今後の展望を聞かせてください。

栗田:ますますもって矛盾しそうです。とにかく、うっかりが多すぎるので、予想のつかない悩みが多くなります。展望とはちょっとちがうかもしれませんが、私の人生には無意味な不安がたくさんあります。なぜ無意味かと言うと、不安に思うことというのは予測していることで、そういうことはたいして大きな事件にはならないんですね。だけど、予測していないことでえらい目にあってしまったりする。

野田:今後の展望という質問に、○○していきたいですとか、△△になります! という答えではなくて、「今後ますます不透明です」という答えは意外性がありますね(笑)。

栗田:たしかに(笑)。あえてやりたいことを言えば、言葉にはずっとこだわってきたので、呻きやそこから出てくる言葉を大事に、書き続けていきたいです。フェミニズムに関しては、ぼそぼそ声のフェミ、地味なフェミ。それをもっと考えて具体化していきたい。

ただ、私は『フリーターズフリー』をやっていたときに、ある種の望みは叶ってしまったところがあるんです。そこで言っていたのは、「ダメ」な女の人が生きていける社会は、いい社会じゃないかということですね。ダメな男の人は、まだちょっと認知度があるんですよ。フーテンの寅さんとか、何をしているかよくわからないけれど、みんなから愛されている男の人、みたいなイメージですね。ほんとうにそれが実現されているかどうかはともかくとして、イメージとしてはある。女の人にはそのイメージさえないから、あえてダメな女の人と言いたいと思っているんです。

山下:呻きと言葉というテーマを考えるとき、呻きと言葉は常に矛盾するところがあって、呻きをどんどん言葉のほうに寄せていったらいいかと言えば、そうでもない。得てして「支援」する側は、当事者の呻きを言葉にしていこうとするんだけど、実際には、そう思うようにはいかない。たとえば、不登校にしても、ひきこもりにしても、賽の河原の積み石のように、積もうとしていても崩れちゃう感じがするんですよね。だけど、私の感覚では崩れることが大事なんじゃないかと思うんです。積み上がっていくと、どんどん呻きの震源地から離れちゃって、ちがうものになってしまうという直観がある。でも、呻きのままでいいかと言えば、そうでもない。おそらく賽の河原の積み石を積んでは崩すことのくり返しのなかに実際の場や関係がある。それをどっちかに片づけちゃうと、何かちがってしまう。そんなふうに思ってます。でも、そういうことを言ってると食っていけないんですよね。

栗田:ひきこもり名人の勝山実さんが、当事者は食っていけない、支援者は食っていけるという話をよくするけれど、賽の河原の震源地の人たちに近づこうとすればするほど食べていけなくなるわけですね。積めば稼げるではなく、賽の河原の積み石が崩れているところに何かあればいいんですけどね。まずは、食べていけるという概念を変えていくのはどうだろう。

山下:安心して積み崩せるようにね。『安心ひきこもりライフ』(勝山実/太田出版2011年刊)じゃないけれど。

栗田:あの本の偉大なところは、そこを少しでも変えようとしているところだと思う。

山下:呻きと言葉の往復、そのあいだに生きていて、そこにはどうしても矛盾がある。矛盾を矛盾のまま抱え持つことが、豊かさなのかもしれないですね。

栗田:豊かさの概念が違うのかもしれないね。賽の河原で崩れるものがないことを豊かさと考えるのか、崩れることも含まれている世界を豊かだと考えるのか。

落語家になりたかった

森下:せっかくなので、柳さんも何かご質問、ご感想があればおっしゃってください。

柳:すごくエネルギッシュな方だなと思いました。言葉もあふれていて、そのエネルギーの源は何ですか?

栗田:ダメなときは、ぜんぜんだめなんですよ。倒れています。でも、おもしろいことが好きだから、ちょっと軽はずみなところもあるかもしれない。どうせ話すならおもしろく話したいと思うしね。10歳くらいのころ、落語家になりたかったんですよ。でも自分の話すことに自分で笑っちゃうから、これはダメだなって(笑)。それであきらめたんですけど、落語的な雰囲気は好きかもしれないです。

山下:それはわかる気がします。予想されたものからは笑いって生まれなくて、気づきやうっかりと笑いはとても近いですよね。そういうものを捕まえることに栗田さんは長けていますね。それが社会的にどこまで認められるか難しい話ですが、そういうものをキャッチする人はいる。それは希望だなと思います。

栗田:たしかに、孤独ではない気がします。伝わる人には伝わる。

柳:しかし、余裕のない人が増えているように思います。対話しようという気持ちも持てないくらい自分のことに追いつめられている人たちが多いなかで、栗田さんには対話しようという意識が生まれている。その差って、どこにあるんだろうと思います。

栗田:私は「対話の土壌をかもすワークショップ」も企画しているんですが、なぜそんな名前になったかというと、いまおっしゃられたとおり、放っておいても対話ができないからですね。みんな自分を守らなきゃと思わざるをえなかったり、怖かったりして余裕がない。その気持ちは否定できないですよね。余裕という言葉でしかうまく言えない部分もあるけど、余裕って、所有しているようにイメージしちゃうじゃないですか。土地に余裕があるとか、部屋に余裕があるとか。でも、持っているものがなくても、どのように余裕が生まれるのか、もう少し考えたいところです。持たないかぎり余裕が生まれないとすれば、いつまでたっても、みんな余裕を持つことなんて不可能だと思うんですよね。

山下:うっかり同盟を広げていくというか、うっかりへの許容度を上げていくと余裕も生まれるというか。

栗田:そのあたりって、破壊するのはあっというまだけれど、耕すのにはすごく時間がかかると思うんですね。あせらないことが大事だと思います。私もワークショップや対談、ものを書くことをやっていこうと思っているし、「こうすればうっかり同盟ができるよ」なんて話ではなくて、いろんなアプローチが必要なんだと思います。

ただね、私としてはお茶を飲んで、みんなでおしゃべりしながらケーキを食べられるこの一瞬がとても幸せでね。45年生きてきたけれど、こういうとき以上に幸せなことってあんまりないですよね。おしゃべりしながら、ささやかなお茶とお菓子があることの幸せ。気が合う相手なら、どういう人とでも楽しいです。こういう空間を維持するための社会運動じゃないかと私は思っています。こういう空間は戦争が起きたら破壊されちゃうじゃないですか。ケーキだって食べられなくなっちゃうかもしれない。

山下:少しズレるかもしれませんが、鶴見俊輔が『がきデカ』(山上たつひこ/秋田書店)のようなお下劣なしょうもないマンガがあることは、すごく大事だと言っていたんですよね。そういうものが許されないマジメな社会は怖い。戦争のときは、そういうものは許されない。そして、いまはかつてとは別のかたちで、そういう部分が刈り取られてきているような気もします。

そのしんどさをうまく言語化することも必要だけれど、やっぱり難しさはありますね。いつのまにかすり替えられ、ちがうものになって認められてしまったりする。そうじゃないんだという呻きは、なかなか伝わらない。

栗田:そういうことは、各方面で起きていると思います。

山下:そこから逃げながら、うっかり同盟が拡がっていったらなと思います。

栗田:私にとっては、今日のこの場のように、いろいろ考えながらも、なんとか明日を生きようって気持ちになれることは大事で、そういう意味でのインフラをどうつくるかには関心があるけれど、そうじゃないインフラには関心がないんだよね。こういうぽーっとした空間でも、運動のマジメな話ばっかりしている人も世にはいますが、私はそういうのにはついていけない。ぽーっとできて、お茶とケーキでのんびり話せる空間があればいい。

山下:では、またお茶を飲みながらおしゃべりしましょう。

一同:今日はありがとうございました。

栗田:こちらこそ、ありがとうございました。

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