インタビュー:栗田隆子さん「呻き、対話、うっかり」

呻いているのは「子ども」

森下:雑誌『フリーターズ・フリー』第1号(2007年6月刊)に栗田さんが書かれた文章のなかに、駅前で演説をするおじさんのエピソードがありましたね。その人がいつも最後に「私がまちがっているかもしれませんが」と言いつつ、自分の主張をくり広げるという話があって、僕はそれがすごく好きなんですよ。

栗田:そうそう! 「私がまちがっているかもしれませんが……でもね……」って、延々続くんですよ。

森下:それは健全な安全弁だなぁと思います。「自分がまちがっているかもしれない」と表明しながら主張する、ということは。

野田:カトリックや修道院のお話をうかがっているせいかもしれませんが、私にとってそのエピソードは「ゆるし」のイメージです。他者を許すという意味でもあるし、難しい漢字の「赦し」でもあるんですけれど。うしろめたくても、矛盾や葛藤があっても、それらは豊かさとつながる気がしますよね。

栗田:とりこぼしたくない気持ちがずっとあるんですよね。弱さだったり、言いよどみだったり、はっきりしない感じだったりするところをとりこぼすと、結局、あんまり社会は変わらない気がする。

野田:「呻き」ですよね。言いよどみや弱さは呻きであり、本のタイトルも『「呻き」「対話」「社会運動」』で、最初に「呻き」が出てきて、「対話」の前にある。私はこの呻きという名づけ、ネーミングがいいなと思ったんですが、呻きに初めて気づいたときは、どのような経緯で「ああ、これは呻きだな」とご自分のなかで認識されましたか?

栗田:聖書のなかに「神は言葉にならない呻きを祈りとして聞いてくださる」という一文があって、好きな言葉なんです。先ほど、祈ることによって言語化していくと言いましたが、「言語化する」ということは、当然、言語ではないところから始まってるわけです。私はいまいっぱいしゃべっているけれど、それは聞いてくれる人がいるからで、実家にいるころは、ぜんぜんしゃべれなかったんですよ。母親がすごくおしゃべりな人で、ガーって言われちゃうと、まったく言葉が出てこなかった。もやもやした気持ちが澱のように積もっていって、「どうしたらいいんだろう?」って。だから、呻きの原点は、言葉にしたくても言葉にならない10代のころにあると思います。自分の呻いている姿は、大人か子どもかといえば、子どものような気がします。言葉を持てない存在というか。だから私の原点には、言葉を持てない記憶や経験があって、それで言葉にすることや哲学に興味を持った。呻きというのは「ううー」とか「ああー」とか、人に伝えられない苦しさがある。そういう意味でも、不登校の経験は大きかったと思います。

呻きは呻きのままで

野田:言葉になることなんて、言葉にできない何もかもから成り立っていて、だから言葉になる以前のものを大事にしたいと思いつつ、結局は言葉にしてしまっているし、書けば読んでくれる人がいる。それはすごくうれしいことなんですが、同時に自分のなかで、多少でも言葉の硬度を上げてしまっているんじゃないか? という問題意識が私にはあります。

呻きは呻きそのままではどうしても伝わらない。けれど呻きを言葉にした瞬間にズレていってしまうんじゃないかという不安や心配がある。あるいはまだ言葉にできず、現在進行形で呻いている人たちに対して、「この言葉で語ってしまっていいのかな?」とか、妙な表現ですが、言葉に「できてしまう問題」が私にはあります。そのあたりは栗田さんはいかがですか?

栗田:原稿や文章を書くときは、さっきの神の声じゃないけれど、降ってくる声を言葉にしている感じで、私の呻きは常に残り続けている気はしますね。

野田:原稿にしているのは声であって、呻きとはまた少しちがいますか?

栗田:そうそう。だから図を書くと、呻きが神に向かう、神から声がくる。こっちの部分を文章にしている感じですよね。

野田:呻きをまずキラキラした星に届けて、星から声が返ってくる。その声をさらに書いていく。ますます巫女というか、よりまし的ですね。

栗田:だから、さっき巫女だと言われたのか。そうですね。呻きをそのまま伝えることは不可能に近いと思ってますね。

野田:私もそこは硬度や強度を上げたり、原石であるところをカンカン打って、少し加工している感じがします。

栗田:そう考えると、呻きはすごく神聖な領域かもしれませんね。神にしか届かない、その人をその人たらしめる、侵してはいけない部分。

森下:呻きは、けっして祈りへと昇華されるわけではなくて、呻きとして残り続ける。でも、呻きは苦しいからなるべく見たくない、存在しないものとして考えたいですよね。生活しなくちゃいけないですから。

栗田:そういう発想もあるわけですね。呻きをなくしてしまう。苦しいことを見なかったことにする、フタをしてしまう。

山下:けっして政治の言葉にはならない領域ですね。

栗田:でも、先ほど言ったみたいに、祈ることによってキラキラした言葉になって、このキラキラは人を動かすことがあるわけです。そこは政治とは無縁ではないかもしれないですね。マーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」という演説だって、政治的ではあるけど、けっこうキラキラしているなと思います。私にとっては、キラキラの言葉をがんばってスローガンにしてみた文章が、『はたらく、女、そしていのちへ』(働く女性の全国センター発行/2018年4月刊)です。呻いて呻いて、声にしてみた。

「人間だから無理」

森下:ご著書にも登場する「うっかり」についてお訊きします。先ほど話に出てきた「私がまちがっているかもしれませんが」と言うおじさん、あの人も意識してそうしゃべっているのかもしれませんが、これもすごいうっかりだなと。でも、そんなふうに「自分がうっかりする存在なんだ」と認識することによって、傲慢になることを防げる。その意味で安全弁として機能する力が、うっかりにはありますよね。

栗田:私は働く女性の全国センターに所属していたんですけど、このセンターの英語名はAction Center for Working Womenなんですね。actionというと、理性的で近代的な人や集団が計画的にやるイメージがあります。でも、私がactionを起こしているときは、だいたいうっかりやっている気がします。それこそ階段を踏み外すように行動する、みたいな。社会運動も、こんなにたいへんだと事前にわかっていたらやってない(笑)。

森下:そのうっかりも、やっぱり神さまの声と同じで外側からくるものなんですか?

栗田:自分がやっているんですが、階段を踏み外したのはおまえの意思なのかと問われたら、ちょっと困っちゃうじゃないですか。はたから見て「アンタ自分でやっているよ」って言われてしまえば、それまでなんですけれどね。

逆に、何かをジャッジしなくてはいけないとき、たとえば、麻生大臣の「セクハラ罪なんてないんだからいいじゃん」発言は許すまじ、みたいなことはある。ただずっとそこだけで自分の言葉を発していくと、すごく消耗するんです。もちろん、「麻生おかしい」や「財務大臣を起訴すべし」と言っていくことも、不必要なわけではない。だけどそこだけを見ていると、うっかりを逃したり、自分のうしろめたさを逃してしまう。それは豊かさをとりこぼすことにつながる気がします。ジャッジする力だけで生きていると、傲慢さも出てくるから。正しく判断できる自分に酔うというか。そこから「正しく判断できないと言葉を発してはいけない」となってしまうと、それはもう黄色信号が発せられる。

野田:そう考えると、ご著書のなかにも出てくる「人間だから無理」というのは、ますますいい言葉ですね。「女だから無理」ではなくて「人間だから無理」というところまで持っていきたいというのは、なるほど! って思いました。人間、という言葉が男性を優先的に指しているという現実を崩す意味でも、上に男性がいて、そこに女性も格上げしろ! というよりも、「いや、どっちもけっこううっかりしてますよ」というところから、うっかりを認めようという話はすごく魅力的でした。

栗田:「女には無理だろう」はもちろんイヤです。そこはむしろ「もうみんな無理だよ」から話を始めたいんです。能力主義と言われるように、いまは「できる」ことを中心に考えることがとても多い。いやいや、もうちょっと「できない」を初期状態として話しませんかって(笑)。

健康でなければ運動はできない?

森下:そう考えると「健康でなければ運動はできない」とか、健康であったほうがいいという発想も、ある意味で能力主義的なものなのかもしれません。しかし、万全に健康である人なら、そもそも社会運動をする必要なんてないという矛盾がありますね。でも、実際問題として運動にはエネルギーがいる。

栗田:そこは、ほんとうに大きな矛盾ですね。だって、パワーがないと生きていけない社会を変えたくって始めていることなのに、パワーがあることを前提に運動を進めたら、それはやっぱり変わらないですよね。運動内部でも、健康な人はいっぱいいます。鬼のように元気というか……。そのあたりは、私はだいぶつらかったですね。そもそも身体が動かないこと自体が、運動とは関係なくつらいじゃないですか。

野田:動けないことを基準に考えるって、実際はすごく難しいですよね。世にいろんなかたちであふれている、健康になれますよ、これができたらもっと身体が動きますよっていう勧誘に対して、心が揺れ動くことはありますか?

栗田:やっぱり、あこがれはありますよ。身体が動かないことが便利か不便かと言えば、それは不便ですから。洗濯物は溜まるし、部屋はうす汚くなっていくし。善悪の問題より、便利不便の問題のほうが身に迫ってくるものがあるよね。話が大きくなりますが、資本主義だって便利を追求しているわけだし、人間はやっぱり不便を突きつけられるとね、つらいものがある。

野田:その不便さは、比べるものではもちろんありませんが、どうがんばっても足が動かない、目が見えないといった種類のものではなくて、外から見れば「やればできるんじゃない?」という不便さだと、自分がぬるく感じてしまう。

栗田:ぬるい不便さですね。でも、うつはバカにできない。うつのあの動けなさは異常事態だと思いますよ。元気な人が、うつだったり動けない人の気持ちがなかなかわからないことはある。だって、ぜんぜんちがうものね。比較的調子がよくて動けるときと、うつでほんとうに動けないときは。その感覚を自分の身体で体験したのは、なかなかの衝撃でした。自分にもこれだけの振れ幅があったのかって。だからもう、善悪を基準に動く感じは私のなかでは薄いです。残ってくるのは便利と不便だね。

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