インタビュー:栗田隆子さん「呻き、対話、うっかり」

祈りは実践的なもの

森下:ご著書の『「呻き」「対話」「社会運動」』を読んで、そこに出てくる祈りが具体的で実践的なことに僕はとても驚いたんですが、いまのお話をうかがっていると、やはり教会のなかでの祈りから実践を学ばれたのでしょうか?

栗田:そうですね。とくに修道院というのがポイントで、教会だと神父さんが中心になって運営していて、カトリックの神父さんは男の人ですよね。これは私の特徴だと思うんですけれど、女の人だったことが当時はなんとなく居心地がよかった。シスターが母親や教師以外の自分のロールモデルだったのかな。自分は絶対に神父さんにはなれないから、そこに投影はしにくかったかもしれないですね。食い意地がはってたというのも大きかったかもしれない(笑)。とにかくシスターたちのところへ行くと何かやっていて、いっしょにごはんが食べられる。「はーい、ごはんだよ」という神父さんはあまりいなかったので。

野田:食べるって大事ですよね。なるにわでもいっしょに晩ごはんを食べたりしています。私自身、家でも学校でも会社でもないところで、ちょっとしんどいときにごはんを食べる場所があるのはすごく救いになっていたので。食べものっていうのは、すごく大きいですよね。

栗田:大きいですね。それと、たまたま私が一番親しくなった方が、スピリチュアルなことを修道女に指導する立場の人だったんですね。だから、かなりくわしいことを教えてくれて「栗田さんにはそういうセンスがある」とかわいがってくれました。スピリチュアルと言っても、占いとはちがって、ほんとうに実践的なんです。座禅とも似ていて、座ってください、深呼吸してください、そういう身体的な部分も含まれる。

森下:そうですね。ご著書を読んでも「窓辺に座って5分間祈る」とか、すごく身体を使っている感じがします。

栗田:そうなんですよ。まず深呼吸をして、よく耳をすませて物音を聞きながら祈れ、というような。けっこう感覚器官を使います。

森下:栗田さんの祈りはシャーマン的、巫女的というのか、そういう感じがします。

栗田:一番コアなところでは、声がする、という感覚を持ってしまうのは大きいかもしれない。私が後に社会運動家と呼ばれるような立場になっても、この声が聞こえないところにはいたくなくなっちゃうんです。もちろん始終聞こえているわけではないんですが、そういう声の確信がない場所にはいられないですね。

野田:その声はご自身の内側から出てくる感じですか?

栗田:これがね、外から聞こえてくるんですよ。だから、自分では思いもよらない言葉が聞こえてきたりする。「それも栗田さんの一部じゃないですか?」と言われたこともあるんですけど、もし自分の内側からだったら、それは自己完結していくと思うんです。結果、もっと近代的な意味で賢い人になっていたかもしれない。私の場合は外からの声に耳をすませることに向いていたんだと思います。

フェミニズムとの出会い

栗田:そして、おもしろいことにフェミニズムに出会ったのも同じ時期でした。高校を休学したころ、江ノ島に女性センターがあって、最初は映画を観に行ったんです。そこにいろんなチラシが置いてあって、そのなかに「フェミニズム入門」というチラシがあったんです。「なんだべ?」と思いながらも「ヒマだから行くか」と。フェミニズムという言葉もよくわかっていなかったんですが。

そうしたら、当時、東京都立大学で助教授をされていた江原由美子さんが来ていて、主婦の方ばかりが集まっていて、私は「おおっ」と感銘を受けるんです。なぜかというと、うちでは父親が働きに出て、母親がパートで長時間働いて、かつ家事もやっていたんですね。よくあるパターンだと思いますけど、母は疲れているからいつもイライラしている。それで、子どもである私に対して、職場の環境とか、解決できもしないことをいっぱいグチるわけ。私は「いい子にならなきゃ」と思っていたので、がんばって聞くんですけど、ばーんと爆発しちゃう。「なんで、うちの母親はこんなにイライラしてるんだろう」と思っていました。そんなときに江原さんの授業を聞いて、「性別役割分業」という言葉を知った。男性は外で働き、女性は家事をする。でも、1989年当時だと、すでに兼業主婦、パートで働く主婦も増えていたから、パートで働いて、家事もやるのではワリに合わないではないかと話されていたんですね。それを聞いたときに、「うちだけじゃないんだ!」、大学の先生が熱心に話すような問題として存在しているんだって。その授業ではセクハラの話も出てました。「隙があるからレイプした」という言い方があるけど、隙があるかどうかを判断するのは男性のほうじゃないか。許されない行為を正当化するのも男性で、ぜんぶ男性の判断のなかで進められてしまっている。そういうことを30年前にすでに指摘していたんですね。その授業より以前に、私はすごくいやなナンパ野郎に出会って、それを母親に話したら怒られた記憶があるんです。「おまえに隙があるからだ」と言われて、なんかおかしいと思ってたんです。母親の言葉は、男性中心の価値観を内面化してしまっている。私はそれを言われたときに号泣して、母親自身のことは許していても、いまでもあの件に関しては許すまじって感じです。それで、その話を聞いて、「すごいじゃないか」と思って、フェミニズムとカトリックという、一見すると相反するものを、「どっちも自分には必要だ」と思いました。それで、どちらも無理くりにでも手放さずにやってきたところがありますね。

すっきりしないほうへ

森下:そのふたつを両方手放さずにずっと生きていくのは大変なことだと思います。

栗田:矛盾は多いですよ。カトリックの教義的には、中絶はしちゃいけないし、同性愛はよくないし、そもそも女の神父はいないし……。

野田:栗田さんはフェミニズムとカトリックの信仰について、矛盾していることを自覚しつつ、その矛盾に対してマイナスのイメージを抱いていないですよね。そこに「ああ、そうなんだ」と、すごく思いました。

栗田:あまり、すっきりするほうを選ばないようにしてきた部分はあるかもですね。だから、えらい人にはなれないところがあるんですけれど。運動でもカトリックでも、すっきりしたことを言う人がえらくなる。だって、どちらも「教義」に忠実だから。教義に忠実だと出世はしやすいと思います。だけどそれは、世の中のことや社会のありようを味わわないで生きてしまうような気がするんです。でも、私は、矛盾があったり、なかなか進まないところから考えていきたい。フェミニズムだけとか、カトリックだけを選ぶというのは、自分がすっきりしたいだけじゃないかって思っちゃうんですよね。それで世界がすっきりするわけではない。

野田:いまの世の中、自分だけがすっきりする道を、いろんなかたちで勧められている気がします。そこに屈せず、世界のことまで気持ちを寄せる力はどこから出てきているんでしょう。

栗田:やっぱり、声の存在ですかね。心の声でも、自分のものではないと感じている。それは危険な道だとも思うんですよ。自分がすっきりするというのは、自己防衛のために必要なときもあるから。でも、私はそれではつまらないと思ってしまうんですね。

神さまとの対話、他者との対話

森下:この本を書かれたきっかけとして、もともと社会運動に対して無邪気な信頼があったけれども、それが裏切られてしまった、そのことで言葉が出にくくなってしまったこともあったそうですね。相手がまちがっているとすっぱり切ってしまえば済む話でもあるかとも思うんですが、そこであえてご自分のなかの無邪気な信頼に向き合われた。

栗田:私は、不登校については運動に関わってないんですよ。大人を信用していなかったから。不登校運動は、不登校の子どもだけがやっているわけではなくて、医者や親といった大人がキーパーソンとして関わっているじゃないですか。「いいように丸め込まれたらいやだな」と思ってたんです。それと、子どものうちは自分の発言に責任がとれないとも思っていました。それで、大人になって自分の発言に責務を持ってもいいかなと思ってから、運動を始めたんです。

哲学にしても信仰にしても、個の領域の強い世界なんですね。祈りも、いくらみんなでシェアするといっても、ひとりで祈る時間はキープされていた。ところが運動のなかでは、その祈りの部分を確保するのがすごく困難だったんです。世の中ではどんどん事件が起きるし、それに対してアクションを起こしていかなくちゃいけない。

それでも、無邪気な信頼があったんですが、運動のなかの権力志向といいますか、まさか運動をする人がえらくなりたがっているとは思ってなかったんですよ。それなら「社長になりたい」というほうがいい。社長にはなれないけど権力はほしいから運動をやるという感じなのかな。でも、自分はそういう屈折はイヤだなと思ったんです。同じ屈折でも、好きな屈折とイヤな屈折がある(笑)。そういう運動のなかにある権力志向にどう向き合ったらいいのかは、大きな課題になりました。

あと、ハラスメントもすごく多いんですよ。男の人からイヤな目にあったり、女の人どうしでもいろいろあったり……。だから、よく運動をする人が少ないなどと言われたりしますが、いやいや、運動から離れ去っていく人が多いことのほうが問題だと思います。私は運動のなかで出ていく人もすごくいっぱい見てきたし、私自身も今年(2018年)の2月に代表をぶん投げてしまったところです。

社会運動は、自分自身も関わってきたから、自分の何を問えばいいのかも考えました。そこで、無邪気な信頼から考えてみようかなと思ったんです。自分のなかの無邪気な信頼にあらためて向き合うことは、運動の内部も問わないといけないことになりますからね。

森下:キーワードのひとつとなっている「対話」ですが、栗田さんのなかでは神さまとの対話があって、それをベースに他者との対話につながっていったわけですよね。そのあたりは、少しわかりにくいと感じるところもあります。神との対話はひとりで行なうものなのに、それが運動や社会とつながっていったのはなぜなのでしょう?

栗田:自分の感情や醜さに対して嘘をつかないことは、運動にもかなり役に立つんです。嘘をつかないということは、起きたことをありのままに見ようとすることで、要するに認知をなるべく歪ませないようにするということですね。社会運動は「社会で何が起きているのか」を捉える行動でもあるので、そこが鈍ると致命的になると私は思っています。正直であること、嘘をつかないこと。その相手が神さまだと信仰と言いますが、人間が相手だと信頼という言葉になりますね。そこで、無邪気な信頼を問題にしたわけですが、じゃあ無邪気じゃない信頼、熟した信頼とはどういうものだろうと。先ほど、大人や親を信じていなかったから不登校運動はしなかったという話をしましたが、ひとつでも信じることがないと運動はできないと思うんですよ。でも、運動のなかでは、誰も信じることの重要さの話をしてくれないんです。「連帯」という言葉はよく使いますが、信頼関係がなくちゃ連帯はできないでしょう。だから、その信頼関係をどうやってつくるのか? という問いにつながってくる。

もちろん、神を信じるのは人を信じるのとはちがうところはあります。神さまは目に見えないもので、完璧な存在として信じるけれど、でも人間に対して信じることだって、その人の目には見えない部分を見ようとしたり、その人の真実はどこにあるのかをちゃんと認識しようとしたり、話を聞こうとしたりすることですよね。それは祈りに近いという感じが私のなかにはあるんです。でも、祈りよりも難しいのは、人間にはガーって言ってくる人がいますからね。そういう相手とは、なかなか信頼関係を結ぶのが難しいです。人の話を聞いてくれないし、そういう人といると体力的に疲れてしまう。それで代表をぶん投げてしまったところがあります。これは課題だなと思っています。私は、パワーで人生を押し切ってきたタイプの人はちょっと苦手なようです。

森下:そういう意味では、神はゼロパワー、ゼロエネルギーな存在ですからね。

栗田:静かだしね。私はうるさいのは苦手みたいです。ただ、パワーフェミって言葉があるけれど、そうやってパワーで押し切ってきた人たちの限界ってあると思うんですよ。その限界に対して、そうじゃない可能性を察知する力はあるかもしれない。パワータイプの人は、パワーじゃないところを察知することは苦手ですから、餅は餅屋じゃないですが、それは私の強みかもしれません。

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