インタビュー:李忠漢さん(アキさん)

人は固定した存在ではない

また、マイナスからゼロに引き上げる支援と、ゼロからさらに成長させる支援は、韓国ではまったく別物と捉えられています。しかし、私はそれは同じことであり、両方を支える必要があると考えています。しかし、この考えを行政や研究者に説明するのは非常に難しいです。一方で、若者たちにはすぐに理解してもらえる。そうした難しさとやりがいの両方を日々感じています。福祉や教育でも、この二つの支援は本質的に同じものとして捉えるべきだと思います。

なぜなら、それぞれ別々の人たちがいるわけではなくて、誰しもが変化する存在だからです。たとえば、勉強はとてもできるけれど、心の状態がぐちゃぐちゃになっている人もいます。あるいは、1月から6月まではとても調子がよかったけれど、7月から12月までは非常に悪くなる人もいます。逆に、またよくなる人もいます。つまり、人は一つの固定した状態ではなく、変動する存在であるということです。

しかし、政策や研究の対象になると、人は一貫した内的合理性を備えた存在であるかのように定義されてしまい、そうした内側のバランスや断片性を捉えられなくなってしまうという限界があります。社会学や人類学、ジェンダー・スタディーズなどの分野では、マイノリティや少数者性を持つ人々について、いま私が話しているようなことを当然のように語っています。でも、より主流の学問や政策の場では、こうした話が通じにくい。

「ポジティブ」ではない共同性は?

山下:政策や支援は、ポジティブな結果につながったということであれば、評価されやすいですしね。マスコミなどで問題が取り上げられる際にも、わかりやすさが求められて、問題が単純化されてしまいがちです。しかし、当然ですが、そこからこぼれる問題はあります。また、アキさんがおっしゃるように、あるカテゴリーの人だけの問題でもない。私たちが取り組んでいるのは、カテゴリーを超えて、生きづらいと感じる人たちと、この苦しさから、いっしょに考え合っていくということです。苦しさを感じている人が、医療や心理ケアの対象として個別化された支援に押し込められてしまっているなかで、そうではない、ともに考え合う場が必要だと思っています。ハジャセンターのようなポジティブな活動で仲間を見つけるという方向性も大事だと思いますが、ポジティブな方向性とは別の共同性ということかもしれません。そのあたりは、いかがでしょう。

アキ:かならずしも成長しないといけないのか、社会にもどらないといけないのかと思います。私は、重力をとりもどすことは大事だと思っていますが、とても苦しい状態のときに、そういう言葉は届かない。とくに、「ひきこもり」状態が持続していて、これからも持続すると思われる人に、そういうことを言ってもどうかと思いますし、本人がいかなる状態にあっても、それをそのまま認めて、支援することが必要だと思います。ただ、日本では深くまで理解が進んでいると思いますが、韓国ではまだまだなので、そこまで話をするのは早い段階だと思っています。また、韓国では、持続的な人よりも間欠的な人が多いという事情もあります。ユジャサロンを6年やっていたときも、間欠的にくりかえす人も多かったので、個人的には悩んでいました。社会に復帰できると信じたほうがよいのかどうか。いまのまま家にひきこもっていても、あなたのありのままが大事だと言ったほうがよいのか。個人の関係においては、その人がどの状態にいても、ありのままでいいと思っても、支援者の立場としては、家から出てきてほしいと言うほかない。なので、とても悩んでいました。ただ、いまは、その状態のままを認めて支援することが必要だと思っています。

暴力の問題について

山下:アキさんのお話には、常に自分を問う姿勢があるなと感じます。日本では、80年代から、強引な手法で子どもを「ひき出し」、スパルタ的な手法で「支援」する施設があり、暴力的な問題が起きて、刑事事件になったケースがいくつもあります。支援者が「これが正しい」と信じて暴力的な手段を取り、それがエスカレートして事件化してしまう。自分たちの支援が正しいと思うのは、とてもあやういことだと思います。

アキ:そういう方法は、たとえ合法であってもダメだと思います。日本も戦争でまちがった方法をとってきた歴史がありますが、韓国も独裁時代には暴力的な手段をとってきた。それが文化的な背景としてあるのではないかと思います。厳しい困難を乗り越えることが正しいというような。

貴戸:支援をするにしても、大人としてかかわるにしても、葛藤や悩みはあると思います。自分のしていることがほんとうに正しいのかどうかわからない。そういうクエスチョンを持ちながら支援をするほうが、大きなまちがいをおかさないですむと思います。

一方で、かつては「自分たちが正しい」という信念をもって、暴力的な手法で支援する団体が問題でしたが、『ブラック支援 狙われるひきこもり』という本によると、最近では、そうした信念すらなく、たんに金儲けの手段として支援をビジネス化しているところもあると言います。たとえば、30~40代になっても子どもがひきこもりのままで親が高齢になってしまった家庭では、数百万円もの大金を払ってでも支援施設を利用するケースもあります。親たちが高額を払う背景には、家族がそれだけ追い詰められている状況があるということも理解しなければいけません。追いつめられた家族が必死に何とかしようとして、暴力的な支援に巻き込まれるリスクもある。そうしたなかで、当事者自身がいま何を思っているか、どんな人生を生きたいかということをコミュニケーションのなかで共有していくのが大事。私たちは、そこをけっして外してはならないと思います。

山下:私がハジャセンターを訪れるのは25年ぶりですが、25年前、私は東京シューレというフリースクールで働いていました。そこは、子どもの主体性や自主性を大事にした場所でしたが、当時、長野県にあった宿泊施設で、スタッフが子どもへの性暴力をしていたことが、数年前に明らかになりました。裁判で和解は成立しましたが、関係者がその問題をきちんと受けとめているとは思えない状況があります。どんな理念を持っていたとしても、内側の問題や矛盾に目を向けないのは問題です。東京シューレにかぎらず、支援団体などが自分たちの活動の意義をアピールする一方で、内部で起きている問題を隠蔽したり、ちゃんと向き合えないでいることは、ここ数年、あちこちで問題になっています。

花井:私も当時、東京シューレでスタッフをしていましたが、同じ職場の仲間だった人たちがそんな罪を犯していたことに対して、私自身が何をしていたのかと思いました。私たちは「よいことをしている」と思っていましたが、閉ざされた空間のなかで見逃していたものがあったのではないか、という強い反省があります。そして、こうしたことはどこでも起こりうるのではないか、ということも考えるようになりました。「よいことをしている」という大義のもとで、内部の問題を見落としていたのではないか。

「自分たちは正しい」と思いこまないためには

アキ:ユジャサロンの活動をしていたとき、正直に言えば、私自身もそうしたおそれがすごく大きかったと思います。たとえば、ユジャサロンに通っている若者が「ここでも自分は受けいれられなかった」と感じて、自殺をしてしまう可能性もあります。そうなったら、「ユジャサロンのせいだ」「ユジャサロンがあったからこそ傷ついた」と言われるかもしれません。いわゆる「自殺ハイリスク群」と言われる子たちも、実際にユジャサロンには来ていました。だから、私は常に「小さなノイローゼ状態」のようなものを抱えながら活動していたと思います。どんなに安全な場所であっても、そうしたことが起こる可能性はあります。そして「若者を助けるための仕組み」をつくったつもりでも、それが当事者本人にとっては充分とは言えない場合もある。そうしたときに、自分では若者たちのためだと思ってやっていても、心のどこかで「自分の権力欲」や「自分がいい人でいたいという欲求」を満たすために動いていたとしたら、それはやはり批判されるべきことですよね。それでも、「自分は若者たちのためにやっているんだ」と思い込んでしまう。でも、それは自分の「欲」であり、「欲望」なんだと、ちゃんと見つめ直す必要があると思います。

そういう意味では、私たちの支援活動自体が、実は「社会的なひきこもり」状態になってしまうこともあるんじゃないかと思います。だからこそ私たちは、「自分たちは正しい」と思い込むセルフライチャス(Self-righteous)のワナに陥らないよう、細心の注意を払ってきたつもりです。さいわいだったのは、ユジャサロンがハジャセンターのなかにあったことです。ハジャセンターにはほんとうに多様な若者たちがいます。ユジャサロンに来ていた若者たちも、そうした若者たちと交流することができました。それに、私たちには「先輩」もたくさんいて、いろいろと口を出してくれる。つまり、自分たちだけの「閉じた空間」にはならなかった、そうならないような文化や仕組みがあったんです。でも、ハジャセンターのような構造を持っている場所は多くないと思います。

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