インタビュー:李忠漢さん(アキさん)

「無重力」をめぐって

貴戸:ありがとうございます。現代の韓国社会の若者の生きづらさとその支援状況がおぼろげに見えてきました。状況をどう概念化するかが、アプローチ視角と関連していると思うのですが、アキさんは「隠遁」「孤立」「ニート」という言葉に疑問を覚えて、「無重力」という言葉を使われているということでしたね。

アキ:そうです。以前、「ニート」という言葉をなくそうと提案したこともありました。ユジャサロンを閉じた直後に「ニート」に関する本を執筆することになり、そこでは「ひきこもり」と「ニート」をあまり区別せず、たがいに排他的に分かれるものではなく、重なり合う概念として捉えていました。

当時(2010年代初頭)、韓国では「ひきこもり」という概念は専門家の間では知られていたものの、実際の事例はごく少数と認識されていました。彼らが可視化されていなかったからです。「ニート」は「ニート族」といった揶揄的な意味で多く使われていました。私の本が2018年に出版され、その本の影響ではないと思いますが、偶然にもその翌年から、ようやく政策的な支援が少しずつ始まりました。そして2020年には「隠遁型ひきこもり親の会」が韓国で初めて立ち上がりました。同じころ、「隠遁・孤立支援連帯」という民間団体のネットワークも生まれました。日本と比べれば、数十年遅れてできたようなものです。

研究者たちは「隠遁」と「孤立」を、「孤立の深さのちがい」として定義し、政策対象を決める際も、そのように使われています。私も、深刻な隠遁で特別な支援が必要な場合はあると思います。しかし、活動家としての良心から「隠遁」という言葉はあまり使いたくないんですね。私が用語を定義できる立場にあるなら、「孤立には程度の差がある」とだけ言いたいです。多くの人が孤立感を抱えていて、そのなかに孤立状態の人がいて、さらに深刻な孤立状態の人がいる、そんなイメージです。

貴戸:当事者自身が「私たちは無重力状態にいる」と自分たちで言うことはあるのでしょうか?

アキ:「無重力」という言葉は私が使い始めたもので、当事者が言い出したわけではありません。実際、ユジャサロンで「あなたは無重力青少年だよ」と言ったことは一度もありませんでした。私たちは、出会った若者たちとカテゴリーではなく、ただひとりの人として接していました。社会的な議論や政策をつくるためにはカテゴリーは必要ですが、関係性のなかでは個々人としてのつきあいですから。でも、後になって、若者たち自身も「無重力」という言葉を知り、受けいれていったようでしたし、とくにイヤがっているようすもありませんでした。つまり、私は、当事者を排除したり、当事者を苦しめるような概念は使わないという姿勢で活動してきた、そう理解していただければと思います。

ユジャサロンのひとコマ

語りえない苦しさは?

貴戸:日本でも、「ひきこもり」という言葉は、当初は「問題のある状態」として使われていましたが、後には当事者たち自身がその名前を逆手にとって、当事者どうしがつながる手段として使われるようになったという面がありました。韓国では、そのような動きはありますか?

アキ:韓国でも、当事者が立ち上げた支援団体に「怖くない会社(안무서운회사)」や「ニート生活者(니트생활자)」などの団体があります。そこでは、「隠遁」「隠遁型ひきこもり」という言葉を使っています。当事者が「隠遁型ひきこもり」や「ニート」という言葉を使うことはもちろん自由ですし、それが自己肯定感やエンパワメントにつながるなら問題ないと思います。ただ、私自身がそういった言葉が好きかと言われると、そうではありませんね。

山下:「無重力」という言葉には、とても共感するものがありました。個人の問題ではなく、社会構造の問題として捉える視点は、非常に大事だと思いますし、「無重力」は、「隠遁」「孤立」している人だけの問題ではなくて、この社会で生きる誰にとっても苦しい問題だということですよね。

貴戸さんの質問に重なりますが、日本では、「不登校」や「ひきこもり」の当事者が声をあげて、一定程度、社会で認められるようになった面があります。しかし、そこで語られるのは、この苦しさを生み出す社会構造を変革していくというよりは、自分の苦しさをわかってほしいという語りであったり、逆に、ポジティブさを語ることで社会的に認めてほしいというような語りが多いようにも思います。そして、そこで語りえない苦しさは、結局は、医療や心理の問題として、個人化されているように思います。そのあたりは、韓国ではどうかお聞きしたいです。

アキ:2015年にユジャサロンが閉鎖されたあと、私はハジャセンターに戻りました。しかし、ハジャセンターには「隠遁・孤立」の若者たちが来るようなプログラムはありませんでした。ハジャセンターでは、学校を辞めた若者向けのオルタナティブな学び場や、高校に在籍しながら1年間だけオルタナティブ教育を受けられる「オデッセイ・スクール」を運営していました。

しかし、そこに来る若者たちとかかわっていて、いろんな苦しさを抱えていることが見えてきました。たとえば、スローラーナー(学習が遅い子)、強迫性障害、ADHD、境界性パーソナリティ障害、社会不安障害など、さまざまな困難を抱えていました。あるいは、うつ病やその他のメンタルヘルスの問題は、もはや特別なことではなく、一般的な状態になっていました。

そして2020年にコロナ禍が始まりました。その後の若者たちを見ていると、以前ユジャサロンに来ていた若者たちが、いまでは「平均的」なレベルに見えるようになりました。まるでプールの水位が高くなったことで、以前は背が非常に低い人だけが呼吸困難に陥っていたのが、今ではより多くの人々が困難な状態に陥っているかのような感覚です。

だからといって、問題が解決したわけではありません。大人になって社会に出たとき、もっと苦しむことになってしまう。企業が求める「社会性」も以前よりは下がっていますが、それでも社会のなかで自分がどれだけ「循環」できているか、自分がどれだけ「居場所」を持てているかが課題だと思います。つまり、いまの若者たちは、多くの人が「幸せではない状態」にあるのです。これは大きな社会問題です。

ユジャサロンで活動していたときは、「社会から見えない若者たちがここにいる」ということを知らせることが私のミッションでした。しかしいま、ハジャセンターで私が伝えなければならないのは、たとえ大学にしっかり通っている若者たちでさえも、見えない苦しみを抱えているということです。彼ら自身が自分の困難を言語化できていなくても、たしかに苦しんでいる。そういう若者たちを支援しています。

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