静かな撤退
アメリカでは「Quiet Quitting」という言葉があります。会社には通っているけれど、気持ちはすでに会社を辞めていて、仕事を50%くらいしかやらない、そういう人が増えているそうです。韓国の20代でも、たとえば学校を休学したり、突然人間関係を断って「音信不通」になったり、静かに消えていく人が増えていて、そういう人たちの存在が、より顕著に見えるようになってきたと感じています。私はこれを「静かな撤退」と呼んでいます。英語で言えば「Quiet Withdrawal」、つまり「社会的撤退(Social Withdrawal)」、いわゆる「ひきこもり」とも言えます。物理的には孤立していなくても、心が社会とのつながりを完全に断ってしまう、そういう状態が増えていると思います。
社会や自分の人生に対して、とても冷めた気持ちになってしまう。そういう心の状態になっている人が多いように思います。そうした状況のなかにあって、なおかつ実際に物理的に孤立している人たちの問題も、もっと長期的・複合的に考える必要があります。
私たちはいま、孤立から別の状態にどう移行していくのかについて、試行錯誤しています。ユジャサロンが2015年に閉鎖され、ハジャセンターでは、いまはユジャサロンのような支援をやっていません。なので、隠遁や孤立している若者は来ておらず、むしろ、ある程度の元気を取りもどした若者たちが来る場所になっています。でも、静かに撤退している若者たちがハジャセンターに来るのであれば、そういう人たちを支援するプログラムが必要です。たとえば、静かに過ごす、何もせずに過ごす、そういう場所も必要かもしれません。
新たな「重力」を
「孤立」の反対は「自立」でしょうか? 「接続」でしょうか? それとも「人生に対する前向きな姿勢」でしょうか? いきなり「自立」を目指すのはとても大変です。とくに韓国では、たとえばソウルで家を買うなんて、親の支援なしではほぼ不可能です。親との経済的なつながりが必要なのに、それがかなわない人が多い。
私は、「幸せな個人」と「役に立つ社会人」という二つの極端なイメージのあいだに、「関係を再生産する人」が必要だと思っています。社会がうまくまわっていくには、たんに「役に立つ社会人」ばかりが増えればいいわけではありません。
だからこそ、「仕事」「人」「文化」という社会の重力が弱まっている現在、ハジャセンターでは「新たな重力」をつくりだそうとしています。
ハジャセンターに来る若者たちは、映画をつくりたい、音楽をつくりたい、文章を書きたい、視覚芸術をやってみたいなど、何かやりたいことを持って来ることが多いです。そして、そこで同じような志を持つ仲間に出会い、仲間意識や所属感を得ることができます。そうして自分たちでつくった作品を展示したり、発表したり、アートマーケットで販売したりしながら、社会的な役割を学んでいきます。
こうした体験を通して、未来の社会変化に柔軟に対応できる「キャリア・レジリエンス(進路のしなやかさ)」を育てることができると考えています。これは心理学でいう「レジリエンス(回復力)」のキャリア版のようなものです。ですが、韓国社会一般では、柔軟性を考慮せず、硬直した「就職スキル」だけを身につけさせようとしているように見えます。それは、いまの時代には合っていない気がします。
ハジャセンターは「冒険者ギルド」
ハジャセンターに来た若者たちは、ここは「安全な空間」で、「自分自身を理解し、能動的に人生を探求する態度を育む場所」だと言います。また、ハジャセンターを「冒険者ギルド」と呼ぶ人もいます。冒険に出る前に、魔法使いに出会ったり、スキルやアイテムを手に入れたり、仲間を探したりする、そんな場所ですね。
おもしろいのは、この定義を提案した人々の一部は、ソウル大学の学生たちだったことです。日本で言えば東京大学の学生のように、社会的資源をたくさん持っている若者たちです。そんな彼らも「こういう場所が必要だ」と思い、ハジャセンターに来て一生懸命に活動しています。
社会に困難を感じているのが低所得層の労働者だけだと、社会は変わりにくいですね。でも、中産階級や上流階級の人たちも「この社会はおかしい」と感じ始めると、社会が変わる可能性は高まる。だから、社会的に恵まれた立場にいる人たちも不安を感じ始めたことは、変化のきっかけになるかもしれないと思います。

そこで、ハジャセンターは、若者たちが「ある状態」から「別の状態」に移行できるように支援するプラットフォームであるべきだと考えています。思春期から青年期へ、学校から職場へ、受動的な就職準備から能動的な人生設計へ、古い価値観・文化から新しい価値観・文化へと、移行できるようなプラットフォームです。
若者には、「安全に成長すること」と「自我を広げること」という、相反するように見える両方を満たせる場所が必要です。日本で言う「居場所」のように、自分でいられる安心感のある場所はとても大事ですが、それだけでは足りない。とくに韓国では、「間欠型ニート」状態の若者が多いため、ただ安全な空間を用意するだけでは、自我を広げたいという欲求を満たすことはできません。かといって競争的で目的ばかりを追い求める場所でもなく、成長の要素がある場所が必要です。
しかし、実際にそういう場所をつくるのは簡単ではなく、私たちも苦労しています。産業化社会や情報化社会とは異なり、現在のような不確実性の時代には、ゆるやかなつながりや協力のなかで何かを生み出していくことが必要だと思います。
だからこそ、新しい問いが必要です。たとえば、「どうやって家から出すか」ではなく、「どうすれば家の外が安全だと感じられるか」を考えるべきです。また、「どうすれば社会復帰できるか」ではなく、「どうすれば社会生活を持続可能にできるか」を考えるべきです。
理解を深めることから
先ほど申し上げたとおり、韓国では「ひきこもり」は政策対象として明確に概念化されていませんが、それ以前に、多くの人がこの状況に共感し、理解を深めることが大切だと思います。韓国は日本よりも福祉制度がずっと弱いですし、孤立や隠遁の若者への理解や支援もまだ不十分です。
たとえば「自立準備青年」とは、児童養護施設を退所した若者たちのことで、自立のための準備をしている人たちを指します。「境界性知能青年」とは、障害とは言えないけれど、学習に大きな困難を抱えている「スローラーナー」と呼ばれるような若者たちのことです。ですが、社会はこの若者たちをどう支援すればいいのか、よくわかっていません。
そこで、同じような状況にある高齢者を考えれば、理解しやすいと思います。たとえば、「自立断念高齢者」と言えば、経済的に困難な高齢者、貧困高齢者のことになります。「孤立・隠遁高齢者」とは、社会生活を送れなくなったり、ひとり暮らしになった「独居高齢者」のことです。そして、「軽度認知障害高齢者」とは、認知症の前段階の高齢者を指します。私はソウル市の政策助言会議でも、そのような話をしました。それが実際に政策に反映されたかはわかりませんが、半年ほど後にソウル市長が新しい政策を発表し、「若者、高齢者、青少年など、年齢を問わず誰も孤立させない」という政策方向が示されました。とりあえず、私の話はここまでです。
