いま、私たちが問われていること
花井 紀子 (はない・のりこ/スタッフ・代表理事)
News Letter#20/2008.09.01より
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子どもどうしであれ、おとなどうしであれ、子どもとおとなの関係であれ、その自然なフツウの関わり合いやつながりを、いつもいつまでも大事にしていきたい。学校復帰云々とか子どもの主体性云々とかいう前に、小さな人も大きな人も、ひとりの人として関わり合って生きあってゆくという、ごく当たり前の関係をつむぐ試みを、ささやかながら貫いていきたい。
フォロを7年やってきて、あらためてそう思う。「年長者だから小さい人に何かを教えてあげられる」とか「この年齢だったらこれくらいのことは……」とか、私自身が小さなころから何年もかかってカラダに沁みこませてきた、学校社会に軸をおく価値観。そうやすやすとは解消しない。けれど、学校とか社会常識といった「枠」から少し距離をおいて暮らしてみようと決めたら、ココロの縛りがいつのまにか軽くなってきた。カラダの中から出てくる声に耳を澄ますことは、とても心地いい。変わらず貫きたいと願う心の中の軸も、ブレたり揺らいだりしつつ、見えやすくなってきた。
フォロが始まったころから考えてみると、「活動をいっしょにつくりあう」という言葉に、子どももおとなたちも、リアリティがなくなったように感じる。フリースクールが、「学校」を相対化した活動や学びの場として生まれ出てきた経緯もあるけれど、「活動」や「学び」の前に、「今、ここにいる」だけで精一杯。「生きてる」ことに精一杯。子どもおとなも、そんなギリギリまで追い詰められてしまった。それをも、昨今では「自己責任」と片付けられてしまう。他人とのちょっとした差異にピリピリさせられ、不安定でおびえが常に伴う。同じ場にいて呼吸をともにしていても、いっしょに生き合っている安心感が薄い。人ひとりの持ちうるエネルギーって、時代や社会状況によって、たぶん、そんなに変わらない。外に開かれにくい社会のなか、他人に踏み込みにくくなったぶん、自己の内側に向かって膨大なエネルギーがくすぶらざるを得ない。世の中に「多様性」「個別化」なんてもっともらしいコトバは氾濫しているのに、どの世代も孤立を強いられていると感じる。
場の運営には、お金がかかる。お金になることと、お金にはならないこと。その択一で言えば、フォロは限りなくお金にならないことに向かって邁進していくという矛盾を抱え続けるのだろう。子ども・若者、「しょうがい」をもつ人、女性、年とった人……少数側に立っているあらゆる立場の人。いつの時代も弱い立場の人のもとには、お金がめぐって来にくい社会構造がつくられている。
これからもフォロは、人と人とが立場を超えて、生き合う実感の持てる関係をつむいでゆける場としての模索を続けてゆく。
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ボランティア、スタッフの声から...
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